理论教育 宋代江南沿海市鎮的形成:近世澉浦鎮的展開

宋代江南沿海市鎮的形成:近世澉浦鎮的展開

时间:2023-07-20 理论教育 版权反馈
【摘要】:宋代江南沿海市鎮の形成—近世澉浦鎮の展開前村佳幸はじめに上海市南西部つまり浙江左岸の江南デルタ海岸部では,海塘や水路,閘門の造営などにより,唐宋以降,しだいに農業経営が安定化し集落が増加し,明清時代においては,さらに商品作物の栽培が普及し,他方で《倭寇》の脅威を受けるなど,多面的な歴史が展開した。同市の領域において確認できる宋代市鎮は澉浦鎮である。

宋代江南沿海市鎮的形成:近世澉浦鎮的展開

宋代江南沿海市鎮の形成—近世澉浦鎮の展開

前村佳幸

(琉球大学

はじめに

上海市南西部つまり浙江左岸の江南デルタ海岸部では,海塘や水路,閘門の造営などにより,唐宋以降,しだいに農業経営が安定化し集落が増加し,明清時代においては,さらに商品作物の栽培が普及し,他方で《倭寇》の脅威を受けるなど,多面的な歴史が展開した。これは中国近世史の大きな流れを為しているといえよう。その展開を捉える上で重要な要素となるのは,《市鎮》と呼ばれた小都市群である。

江南運河の貫くデルタ地帯に関しては,内外で最も多くの研究成果が上げられている。近年では,樊樹志氏による大著《江南市镇:传统的变革》(1)が上梓されている。筆写もまた江南の一市鎮に焦点を絞った研究を行い,南宋湖州烏青鎮を取り上げた(2)。同鎮は現在,烏鎮鎮として浙江省嘉興市に属する。同市は南宋時代には嘉興府であった。同市の領域において確認できる宋代市鎮は澉浦鎮である。本鎮は海岸部にあり烏青鎮と生態環境は大いに異なっている。さらに本鎮に関しては宋代以来の地方志が存在し,自然環境においても資料面においても非常に特異な存在であり,宋代社会の時代性と多様性とを探る上で重要な対象といえる。

その先行研究としては,池田静夫《宋元時代の澉浦港》(3)があり(4),天然の良港を擁する澉浦鎮が杭州の外港として発展したことを指摘する。しかし,清代の澉浦鎮は海港の地位を明代設置の乍浦鎮に完全に譲ることになった。それにもかかわらず,《二浦》として扱い,両者の対照的な状況を十分指摘していないように見受けられる研究も存在する(5)。本稿では,明清時代の地方志資料も利用し,鎮の周辺部も視野に入れて澉浦鎮の《発展》をめぐる諸問題を検討していきたい。

(一)《澉水志》と後続方志

“乡镇有志,始此書”(6)《鉄琴銅剣楼蔵書目録》巻十一。“可謂体礼精厳,藻不妄抒者矣”(7)。四庫全書において,《澉水志》は,水系ではなく地域を記述した書であると判断され,鎮であるにもかかわらず,都会とみなされるほどの存在であったので,地理類に分類されたのであった。

謹按,澉水虽水见《水经注》,然是书乃志地,非志水,不可入山水中。以镇亦郡县之分区,故附缀于都会郡县类焉。

《澉水志》は,その序跋文によると,南宋紹定三年(1230)に編纂が始められ,それから二十七年も経過して刊行されたものである。ただし,《澉水志》の現存する最古のテクストは,嘉靖三十六年(1557),董穀による《続澉水志》全9巻の刊行にともない再刊されたものである。董穀の序文によると,宋代から300年近くも経過したこの時期には,《澉水志》の版本は失われ本文も断片的に残る状態になっていたことが分かる。その抄本を蒐集して再刊したのは続編を刊行した董穀の大きな業績である。董穀の序文は《澉水志》の序跋文の前に配置されているが,《重刻海盐澉水志序》と題し,常棠による原序を《海盐澉水志序》と記して文中の書名も改変している(8)。そして内容は8巻構成となっているが,これは後代の編纂物である《続澉水志》に対応させたものとみられる。

《澉水志》のテクストについては,天啓年間(1621—1627)刊の《盐邑志林》(《丛书集成初编》,1937),《四库全书》(1781),そして《澉水志汇编》(1935)といった叢書に収録されているほか,道光十九年(1839)に刊行されたものを咸豊七年(1857)に再刊した海昌?陳氏双清草堂刻本,すなわち《至元嘉禾志》とセットで刊行された《禾嘉旧志合刻》本が存在する。このことは《宋元方志丛刊》(中華書局1990)に影印される《至元嘉禾志》の跋で確認できる。なお《禾嘉旧志合刻》には,《清末》刊行の沈氏毎日楼(沈芝蘭,字安之,上海人)によるものとがある(9)

これらのテクストを対照すると,董穀以降の方が校訂が行き届き,内容的にも増補されていることがわかる。ただ,書名と序文における《志》を《志》に戻す動きがある反面,書名に澉浦鎮を所管する海塩県の名が冠せられるようになったのは,鎮と県の関係について示唆するところがある。

清代には,方溶、万亜蘭による《澉水新志》全十二巻首一巻が道光三十年(1850)に上梓を見た。刊行の間隔をみると,宋から明,明から清にかけては,それぞれ300年前後経過しており(10),道光年間の《澉水新志》から民国期の《澉志补录》(不分巻1935)の場合は80年間程度である。ただし,清代後期から民国期への激動の時期にあっては,その間にすべてが散逸しても不思議ではなかった。

程煦元が咸豊元年(1851)以降の事績を記載する《澉志补录》をまとめ,さらに《澉水志》《続澉水志》《澉水新志》を集成する《澉水志汇编》を鉛印出版したのも,その恐れからであった(11)。明清時代は郷鎮志の発展期であり,江南地方においては市鎮レベルでも方志を編纂することが珍しくなくなった。しかし,澉浦鎮のように方志が継続して編纂され現存しているのは,異例のことと言わなければならない。

《澉水志》の後続方志は全て《中国地方志丛书?乡镇志专辑》第20冊に収録され,内外の研究者に供されている。澉浦鎮とその周辺地域の歴史を研究することは,これら地方志を多面的に検討することであると言っても過言ではないだろう。

《中国地方志联合目录》(12)によれば,《澉水志》には《东武刘氏嘉荫簃》すなわち劉喜海(1793—1852)(13)常州·陸黻思の抄本(南京図書館蔵)など清代の抄本が複数存在し(14),《続澉水志》《澉水新志》にも抄本がそれぞれ複数ある。

澉浦鎮の方志の特徴として一つ指摘できるのは,方志の編集が統治者ではなく在地の読書人の意図を起点とするもので,その忍耐強い資料の収集と調査の成果であるということである。ただ,董穀のように,必ずしも累世の郷土意識に基づくものとは言い切れないところがある。そして,その編纂·刊行に携わったのは生員や教師のようなレベルの人士であり,その出版が物質的な成功をもたらす訳でもなかったと思われるのに,達成しているのである。それだけ,この市鎮に興味を惹かれる要素が溢れていたことを示すのだろうし,《澉水志》という評価の高い方志を書き継ぐことに文人としての才覚を試す価値が見出されたのかもしれない。道光年間(1821—1850),陸黻思は明·正徳《武功県志》も抄写している(15)。方溶は《澉水新志》に着手した年を嘉慶十五年(1810)と記し,道光四年(1824)に海塩県の知県が寄せた序文では,《武功県志》《朝邑県志》を引き合いにしているが,これらの書は《四库全书总目提要》で賞賛されていたものである。

ともかく,《澉水志》以降の方志に通底しているのは,宋代からの連続性の確信と南宋時代が二度と戻らない全盛期であったという認識である

顾议者曰,省有省志,郡有郡志,邑有邑志,澉隶于省于郡于邑而又以志焉,志之何为者。于乎兹,汉阳所为厚徳哉。昔少原(少源)之野,有刈薪面哭其亡簪者曰《非伤亡簪,不亡故也》。澉故土也,澉志故典也,忍使泯灭无伝,如少原所恨哉。矧夫一閧市。幸有宋志抄本流伝民间,固述史之饩羊已尔,非続而络之锓以成编,数伝后将并宋志蠧烂焉。一方故実,邈不可知,后之惜今之惜古,而抱亡簪之恨者,将宇宙无穷矣。则斯志也,固期博物者,図形于影,察火于灰,使得以拟纤丽而睹烈焔,与此汉阳所谓厚徳也。(16)

按邑図経云(17),宋《澉水志》,淳祐六年(1246),創市舶官。十年置市舶場在鎮東岸,凡大食·吉邏(古邏?)·闍婆·占城·勃泥(渤泥?)·麻逸·三仏斉諸蕃邦並通貿易,以金銀·緡銭·鉛錫·雑色帛·瓷器,市香薬·犀象·珊瑚·琥珀·珠琲·璸鉄·鼉皮·瑇瑁·瑪瑙·車渠·水晶·番布·鳥樠·蘇木等物,番舶至聚長墻山龍眼潭下,由招宝閘入運河,穿鎮西出柵橋発引収税,抵六里堰搬度下河流通内郡。《元史》食貨志,至元十四年(1277),立澉浦市舶司,令安撫使楊発督之,毎歳招集舶商於番博易洙翠番貨等物,次年迴帆。至大徳二年(1298),始并澉浦入慶元提挙司。明時罷設。国朝康煕二十四年(1685),復設海関,雖不及宋元之盛,而海舶往来,固已流通於内郡。(《澉水新志》巻5課税·関榷)

澉浦自南宋以来为吾国重要之海口,元·明之世,海道交通仍极繁盛,惟自明代防寇甚厳,商贾稍稍裹足,加以海水益淤浅故,清季开放门戸,澉既退处于闭塞之区,目下海上交通仅由澉至対岸余姚,尚有帆船(俗名轮埠船)往来。(18)

上記の点を念頭に置きながら,本稿では《澉水志》を中心とする鎮志を通じ,澉浦鎮という近世江南社会の一齣について概観してみたい。

2.澉浦鎮の立地と特性

現在,澉浦鎮を訪れて先ず目を引く施設といえば海岸にある《长山闸》ではないだろうか。かつて本鎮には《長河》と呼ばれる水路があり,“与下河高低悬绝,全恃此堰,以遏上河之水,如偶水多时,可启堰南之転水闸,以泄入下河”(19)と記されている。この閘門は水路の水位差を調節し増水時には放水して保全するための施設なのだろう。そして,地図に《长山河》と記され,海寧市と嘉興市に接続していると推測される水路があるが,これが《长河》の後身であろう。そして鎮では近代的な閘門と対照的に,海港施設はほとんど発達していないことが確認される。

本鎮が立地する,長江と銭塘江のあいだの海岸線においては,砂泥堆積が顕著であり,水深の浅い海岸が並行しており,波浪高潮を受けると崩壊する不安定な地質である。現在では堤防が構築されているが,水害や塩害といった農業に深刻な悪影響をもたらす特性は,宋代においてもおよそ不変であったと見て大過ないだろう。自然環境の制約の強い地域に市鎮が現出するには,飛躍的な発展の段階を経ていなければならない。その要素を具体的に考えたとき,特別な地勢の存在と後背地の発展が考えられる。

なお,江南運河沿いの都市と市鎮,市鎮を含む都市の周辺地域については,衛星写真の解析によれば,次のような所見となる。

杭州湾に面する上海市南西部から嘉興市,さらに浙江省東南部にかけての地域は,海抜3m以上の平坦な台地面とそれを刻む谷底平野状の地形とによって特徴づけられる。台地と低地との比高は3—5mに達するところもあり,台地を構成する堆積物は黄褐色のシルト質堆積物によって構成されている。なお,この地域では衛星写真上では明瞭な自然水路が認められず,各都市から放射状にのびる人工的な水路(運河)が顕著に発達している。(20)

これを踏まえると,澉浦鎮発展の要素として,海岸部と内陸部との交通の結節点になっていたことが考えられるが,江南運河沿いの大都市のなかで最も近く行政上の統属関係にもあった嘉興府とのルートが最も密であったのではないだろうか。そこで,浙江省第一測院《浙江省地图集》(21)の1:110,000《海盐县》1:140,000《海宁市》を見ると,秦山(181m),青山(102m),長山(93m),葫蘆山(119m),揚山(111m),高陽山(251m)などがそびえ,澉浦鎮の沿海部には,堆積作用によるものではない第四紀以前からの《高台》《残丘》と思しき低山が確認できる(22)。これにより,船が安全に進入·停泊できる入り江が存在し,往来する船にとって目印となり地上からの監視にも都合のよい高台のある《地勢》が推測できる。これらは,海港として市鎮が存立する条件として重要な点である。

宋朝にとって,この鎮が海防の拠点であったことは,水軍が配置されていたことから十分窺えるが,これはつとに指摘されるように杭州が首都となった南宋になると明白となる。鎮を拠点とする水軍は,揚子江右岸の許浦鎮から分遣され,開禧二年(1206)に独立したものである(23)。南宋末期にはさらに増強されるが(24),これはほとんど抗戦せずに投降したものの(25),モンゴルの脅威に対応したものであった。そして,明の洪武十七年正月十七日(1384)に倭寇の劫略があり,市街地を囲む城壁が建設?整備されるようになった(26)

海岸沿いの小山はその麓が堤防の起点にもなり19世紀の史料にも記されるように,高潮を防ぐ役割を果たしていた。

《伊郡志》丛谈门曰(27),澉浦介海盐·海宁之间,三面瀕海,一线土堤,向无石塘,而免潮患。(28)

镇之东南西三面濒海为三江之尾闾,赖有秦驻、青山、长墙山、葫芦山、西山。脚环立海口,石趾峙出,潮势至此而杀,是诚天造地设之海塘也。(29)

これら《天然塘岸》を保全するため,明代より採石が禁じられていたが(《澉志补录》山·長墻山),清代には売却目当てに採石し運び出す者が現れ,郷紳層から何度も国家による禁令が要請されるほどであった。

そして,鎮西南の山間部にある永安湖は,灌漑用水を蓄えるダムとして,鎮周辺の農業に不可欠な存在であった。この湖は《民田を以て為》(《澉水志·水門》)したとあり,人為的に造成されたといわれるが,地域社会にとって,この《湖》からの取水·配水,大雨の際の排水が重要な問題となり続けたに違いない。しかしながら,永安湖のみが鎮とその周辺地域の運河·水路の主要な水源であったことは,慢性的な水不足をもたらしていた。

切照本区,地临海岸,田土高阜,不通下河,止靠本境永安二湖取水救济。(30)

澉浦地高阜不通下河水无活源,十年九旱,往往灾患,不能备。(31)

そしてそれが,鎮とその周辺における灌漑と水運に重大な影響を及ぼしていたことが,南宋の方志には示唆されている。

六里堰在鎮西六里,高下相去数仞,為恵商·澉浦·石帆三村灌田·堤防之所縁,舟船往来,実為入鎮門戸,因置車索,今(合)属本鎮提督。

三里堰 在镇西三里,元无此堰。淳祐九年六月,大旱。民居沿河,私倷小堰,至水通,诸堰悉复毁去,独此堰堤为居民私置索邀求过往,久为定例。然军船之往来,塩场之纲运,酒库之上下,与夫税务诸场之版解,商旅搬载海岸南货,别无他岐,河流易涸,実为不便,况此方既有六里堰,足以防闭水利。此堰赘立,委是为害。淳祐十年,茶院酒官朱南杰申县开掘,済利一方,但提督诸堰实隶镇官,常宜觉察重倷邀求之弊。(32)

《六里堰》は後の《长河》,現在の《长山河》である。管見の限り,《車索》と《倷》が具体的に何を意味するのか確定できないけれども,《車索》が何らかの設備であり,《倷》が動詞であることが文脈上から読み取れることから,民間で堰をや閘門を造り水路を分岐させ,勝手に取水したり金を取って舟を通行させていた状況が推測される。もしそうであったならば,鎮とその周辺における有効な水路は限られており,人々がこれに殺到するとたちまち脆弱性を来す水準であったことが指摘できるだろう。

このように,本鎮には,たとえば湖州の烏青鎮のような,縦横に展開した水運ネットワークの恩恵を受けて発展する要素が欠けていたといえる。他方において,永安湖は容易に満水となり(33),鎮の水系ではうまく処理できず住民を悩ませていたようである。《澉水新志》巻1地理·水などの記述を参照すると,澉浦鎮では,《堰堤》や《闸门》のような装置により,高潮をしのぎつつ,高度差を利用した農地?集落への給水が可能であった反面,多大な労力とコストを必要としていたことが分かる。

それでは,宋代において,この地域の農村部は飛躍的に発展し,鎮もまたその市場圏の核として繁栄したものであったのだろうか。《澉水志》とそれ以降の鎮志を対照することにより,宋代における澉浦鎮の特性が浮かび上がってくる。明代の《続澉水志》においては,鎮の人口·ゾーンは周辺農村を含んでいることが明記されている。つまり,その人口もまた農民を含むものであって,残りの城壁の内部に居住するものは,限定された者となり,しかも《千戸所》の軍人とその家族がかなりの割合を占めたと考えられる。

南宋の《澉水志》には“户口约五千余,主户少而客户多,往来不定,口尤难记”とある。この記事について,これまで筆写は澉浦鎮の市街地の規模と都市的な流動性を示す史料であると解釈してきた。しかし,この記事は周辺農村の不安定さを記録するものであった可能性もまた高いように思われる。《澉水志》の物産門では,《红涟》《六十日子》など《早稻名》のみが挙げられ,洪武年間には,商税徴収機関が廃止される一方で塩の税額は残された(34)。これらのことから,本来,澉浦鎮はどちらかというと農業的に豊かでない地域に立地していたことが窺われる。

ここであらためて確認したいのは,宋代における澉浦鎮の発展は,農村部の商業化に対応した結果ではなかったことである。その主な要因として考えられるのが,浙西における海岸部の開発は後に石材を用いる恒久的な事業になるが,長期間,《土堤》であって,清代になってようやく《石堰》を構築する段階に至ったのであり,宋代においてはその初期的段階であったと位置づけられることである(35)。そして,民国《澉志補録》穀類によれば,《吾土所種利於早熟,無種晩稲者》とあって,《八十日子》《百日子》《百二十日子》という品種が主流であった。これらは宋代の史料にも登場し(36),栽培期間が短く,その分危険を回避できるが,低質米であったという。以上により,澉浦鎮の周辺地域では,長期にわたって,台風などにより生じる大潮に対する積極的な備えはなく,その時は大打撃を甘受するしかない状態であったと考えられ,沿海部の鎮周辺部の農業は相対的に低水準であったものと推定するのが妥当である。この点について,明代の人々は次のように述べる。

人皆知澉之贫,而岂知贫之自哉。在古之所以当者,百货来于海中,而无事于稼穑,在今之所以贫者,四体盖于地力,而尚艰于饔飱,非其民之情,盖食之所资者农,而农之所资者水,其山四塞,其水无源,故东西皆膏腴之田,而取足于一湖,东北多斥卤之地,而仰给于天雨,湖既淤浅,雨复不时,则环镇秋成皆失望矣。大率十年之中,旱者六七,食既不敷,而粮复不免此贫之宜有也。(37)

このような段階ゆえ,明清時代においても,この鎮の周辺は内陸の湖州ほど顕著な市鎮の展開を確認できない(38)。それどころか,《续澉水志》には,“昔十三都至富庶,凌迟至今十一”(39)とあり,税役の改正をめぐる言辞とはいえ,鎮自身も衰退していたことが指摘されている。また,清代後期の方志(19世紀前半)にも,

田野小民,火耕水耨,兼以山伐煮海营生,妇女善绩麻纺纱者少,更以织苎布为业,催科重而生计薄,习尚淳而盖蔵少,未能家给人足。(40)

とあり,なお人々の生活は古風で裕福でないことが強調されており,商品作物の栽培や家内工業が十分発達していないことが示唆されている。そのため,この県全域に対象を広げても,明清時代の浙西地方で活発になった棉花油菜の栽培や製糸,紡績業などを確認することは容易ではないかもしれない。

すなわち,南宋とつづく元代において,澉浦鎮が繁栄したのは,周辺地域の発展による市場圏の形成によるものではなく,従来からの製塩業に加えて海港を利用した民間および海外との交易を誘致することができたことに起因する。そしてそれには,官府による運河の整備が重要な役割を果たしていたといえる。鎮を起点とする運河は,明清時代には塞がり民家が建ち,海塩県の県城との往来も陸路となり効率的で活発なものではなくなった。また,鎮城の環濠(城河)さえ空堀になってしまうほどで,その維持には権力による不断の監督を要するものであったことが窺える(41)。これに対して《紹興間,人民稀少,今,煙火阜繁,生歯日衆,故不至此》(《澉水志》鎮境)として,県城よりも人気(ひとけ)のあったことを県志が記すほど繁盛した(42),宋代の澉浦鎮は,海港としての機能が大いに重視されていた。そこには,県城を経由した塩の輸送や抽解業務のための運河が存在し,海上への門戸も複数あり,官府による管理が比較的行き届いていたのである。

(三)宋朝による統治

澉浦鎮の北方にある乍浦鎮は17世紀後半以降は長崎を通じた対日貿易の拠点として栄えた海港であった(43)。しかし,陸地測量部1937年製版(1932年航空撮影)の地形図(1:25,000)を見ると,海上からの侵入に対する防御性の高い構造となっている印象を強く受ける。そしてこれは,物資の移送がもっぱら内陸に依存していたことを推測させるものである。開放的な海港というより,軍事性の高い要塞としての性格が強くなったのである(現在は嘉興市の外港として整備)。明代の澉浦鎮にも城壁が構築されるけれども,それは市街地部分をカバーするものであって,武装し上陸してくる集団に対して立て籠もるための設備である。先にも触れた通り,海防の必要性が高まったのは,《倭寇》によるものであり,鎮周辺でも戦闘が繰り広げられたことが在地人士の記録に見える(44)。こうした海上からの脅威に対抗するものとして,明清時代では衛所·千戸所に代表される軍事体制が整備され,交易から防衛の拠点としての性格が強まった。こうして,経済的に不振にはなっても,城郭をもつ集落として,県治に完全には包摂されない,独自性が意識されるようになる。宋代でも水軍が駐屯したけれども,城壁ではなく水路の維持が選択されたことからすると大きな変化である。

以上のような鎮の防衛重視の性格は,国家により付与されるものである。都市的な集落としての市鎮が周辺地域に及ぼす一般的な機能といえば《市場》である。ただし,宋代の澉浦鎮は同心円的に展開した市場ネットワークの恩恵を受け,周辺農村の生産物が定期的に出荷され他所からの商品を供給する,農村市場としての機能が主軸ではなかった。宋元時代の澉浦鎮が後代と最も異なるのは,《海禁》政策がなく海上交易の利益を最大限享受できたということであり,これが鎮として周辺農村部の経済的発展とは直接的な関係をもたずに成長させたことを浮き彫りにしている。

南宋時代の澉浦鎮とその周囲をめぐっては,最大で八つの官名が数えられる(《澉水志》碑記門《黄道山水池记》)。そのなかでも,《鲍郎盐场》の官員は北宋以来配置され製塩を監督する任務にあった。製塩は盛んであったが煮沸によるしかなく高コストであったようである(45)鎮の周辺は山があるので,そこに燃料を求めることになる。しかしながら,その植生があまり豊かではなかったのか,植林せず製塩の燃料として草木を養生している山があり,官の管理下にあって亭戸(塩焼き人)はその供給を受けていた(46)。しかし,その他の山々では,周辺住民との間で紛争が生じ,刃傷沙汰にも及んでいた。

右六山,不种林木,百姓牧养牛羊处所。先是,亭民·百姓争柴山。自五代至本朝有讼,屡経御判。人以石匣贮文,以蔵于地二百年。初无定属,毎歳交峰山上,杀死不已。淳熙十一年,仓使右検详起宗委干弁公事常于,公暇采舆论参酌,与夺各分定界,永为不易之论具奏。上悦,由是息争。(47)

この記事によると,紛争は戸部?権倉部郎官の石起宗(48)による介入によってはじめて終結したとされ,監鎮官をはじめとする駐在官や知県や知州の手にも負えない案件であったことが窺える。監鎮官については,北宋以来,鎮の集落内部の《烟火公事》を監督し一定の刑罰を処断する権限があった(49)。南宋の澉浦鎮では,皇帝生誕日(聖節)には鎮の現任官と寄居官を従えて儀式を行うなど,駐在官の代表的な立場になっていった。しかしながら,実際には鎮の市街地にとどまらない広い範囲で人々の活動が営まれる澉浦鎮では,監鎮官が複雑な紛争の解決に決定的な役割を果たす唯一の存在ではなかったことも注意を要する。たとえば1254年,包恢は鎮に配備された水軍に指令を下し,海賊平定に成功したというが,これは浙西提点刑獄使として路内を指揮する広域的な権限を有していたことも成因の一つとなるだろう。

(宝祐二年闰六月)以包恢提点浙西刑狱,招捕荻浦塩寇。(50)

是时海寇为乱,恢単车就道,调许(浦)·澉浦分屯建砦,一旦集诸军讨平之。(51)

当時の澉浦鎮に赴任することは,選人として官界への途を歩み出したばかりの官僚にとっても,あるいは出世の望みが閉ざされた下積みの官僚にとっても,鎮とはいえ,蘇州と杭州の中間にあり,僻地に赴任することに比べると,それほど悪くない差遣(職務)ではなかったのではないだろうか。監鎮官の資序が知県以下の官員としてはやや高く設定されていることもその証左の一つである(52)。本鎮には商税務以外に市舶司が設置され国際貿易の関税業務を行うようになっていたといわれるから,“実入り”は大いに期待できたのではないだろうか。

当時の鎮には,烏青鎮におけるような享楽的な盛り場も存在していた可能性が高い。ただその存在が,読書人層の筆に成る地方志では項目になっていないだけで,以下の史料などを見ると,実際には,営業と取締りのせめぎ合いが展開していたように思える。

张帝庙在镇南市。嘉泰三年立。绍定三年重建。后泊户以庙门为酒肆。宝祐二年,监镇张焯与茶院陶监酒拆去酒店,立李太尉小殿対庙门,以免秽杂。(53)

この史料は監鎮官の職務の内に住民監督が含まれていたことの一例であるが,南宋における澉浦鎮の監鎮官は“親民”資序であった。監鎮官と住民との関係については,特定の人物を顕彰する徳政碑が注目される。《澉水志》碑記門には紹定六年(1233)に執筆された《徳政碑》が掲載されている。この文章においては,監鎮官羅叔韶(1230年赴任)は知県のような官員として住民にとって様々な問題に対応し,在地の士人を尊重してくれる存在として描かれている。この文章が石碑として実際に建立されたかどうかは別として,その背景から,南宋社会の特色として,どのようなことが読み取れるのであろうか。

たとえば,《名公书判清明集》巻一《官吏》の“禁辑部民挙扬知县徳政”,同書巻二《官吏門·生祠立碑》では,知県の《徳政》の称揚や《生祠》建立の背後に,在地有力者による地方官との癒着や政務への容喙などが示唆され,統治者として拒絶する姿勢が打ち出されている。こうした顕彰行為は,常に法令による規制が加えられていたようである(54)

しかしながら,地方官と有力な特定の住民との密接な関係がなくなることは決してなく,その関係をアピールする記念物は建立され続けたであろう(55)。そして,澉浦鎮の《徳政碑》などには,後任の監鎮官に対する何らかのメッセージも込められていたのだろうか。この点については,多くの地域や事例から導かれる,南宋以降の官員と社会との関係のあり方から位置づけていく必要がある。

そもそも,《澉水志》は監鎮官である羅叔韶が《竹窓》と号する在地士人の常棠に編纂を依頼したものであり,羅叔韶は自ら序文を寄せている。そして,本書には羅叔韶の治績を称える文章が掲載されているが,その跋文によると,実際に何代か後の監鎮官によって刊行されるのは27年後のことであった。結果として,《澉水志》の碑記門には11編の文章が掲載されている。

①常褚:《澉浦镇题名记》(嘉定九年,1216)

②張思斉:《澉浦镇新刱廨舎记》(端平三年,1236)

③常棠:《澉浦镇题名记》(宝祐二年,1254)

④邢子政:《美固堂记》(淳祐十年,1250)

⑤不著撰人:《黄道山水池记》(淳祐十一年以降)

⑥葛紹体(書字:高不華):《思贤碑》(宝慶三年,1227)

⑦楊啟:《徳政碑》(紹定六年,1233)

⑧李昌宗(書字:常令孫):《鮑郎场题名记》(嘉定十七年,1224)

⑨黄寅《还朝序》:(嘉定十七年1224)(www.daowen.com)

⑩常棠(書字:常棣):《秀野堂记》(嘉熙三年,1239)

〇11常棠(書字兼):《鮑郎政绩记》(淳祐五年,1245)

これらは全て鎮の駐在官の治績を内容とするものである。そして,題名記をはじめ羅叔韶以降の官員とその治績に関する文章も加えられている。そのため,これらの文章が実際に碑文として建立されたにせよ,建立されたが残存していないにせよ,方志という書物に集成されたことで,澉浦鎮に監鎮官を初めとする複数の文武の官員が何代も駐在し,それぞれ特筆に価する事績を残したことが示されているのである。

宋代以降には“则路上行人口是碑,虽无碑无祠可也”(56)とか“呂成公曰(57),著之金石,不若託之君子之口之不朽也”(58)などと称する言説が散見される。他方において,顧炎武が“今世立碑不必请旨,而毕衮之权操之自下,不但溢美之文无以风劝,而植于道旁,亦无过而视之者,不旋睡而与他人作镇石矣”(59)と指摘するように,地方官の地域における事績を顕示する虚栄心もまた強かったように思われる。《澉水志》とりわけ《碑記門》からは両者のような意図を折衷する特徴を読み取ることはできないであろうか。

宋代以降活発となる地方志の編纂と刊行については,地方官と在地の読書人との密接な関係を抜きには理解できないはずである。市鎮に過ぎない澉浦鎮においても同様な状況が現れていたことは否定できない。

このように,明清時代の官員と住民との関係をめぐっては,《近世社会》として通底する面もある。海上交易が行われないにせよ,県城までの交通路について最も効率的なものは水路であることはいうまでもないが,正徳十一年(1516)に開削の上奏がなされる頃までには埋没しており,その再建は官員による熱心な提唱が無ければ実現しなかったことが分かる(60)。さらに,城壁など防衛設備についても,朝廷から潤沢な費用が出るわけでもなく,住民による負担が求められた。こうした公的な事業は,住民達が集合して終始自発的に行動するというよりも,特定の官員が率先し指揮するかたちで推進され,その官員の業績として方志に叙述されていくのである。その背後には,実質的な推進者がおり,それが士人とか郷紳と称される民間の有力者であったことは十分想像される。しかしながら,各時代の地方志に示される公的な言説においては,外来者でしかも鎮の振興に腐心している官員が主体となるのであった。

おわりに

澉浦鎮は,宋代において,行政的には同じく市鎮に過ぎなかった上海の発展と対照的な存在である。19世紀半ばの上海海港以来,鎮の住民が最も富裕となる方途は上海での成功であり,農作物や副業の内容も変化し,上海の国際的な経済力に大きく影響されるようになる。鉄道の開通はそれに拍車を掛けた。たとえば,滬杭線の主要駅がある海寧市は1930年代に沿海部から硤石鎮に移転し旧市街地は塩官鎮と称されるようになったものである(61)。澉浦鎮は鉄道沿線から最もはずれているにもかかわらず,それでも,“澉浦镇为全区之中心。历来文化颇有可观”(62)という自負心があった。それは,《长河》という幹線運河を保持することで鎮の周辺農村の中心としての機能を発揮するようになったからではないだろうか。なお,海防に関しては,より上海に近い乍浦鎮が要塞化したこともあり,副次的なものとなったようである(63)。こうして,文献史料を通じ,ようやくかつて国際的な海港都市であった史実が判明するほど鄙びた農村市場に変貌したのであった。もはや上海以外の海港都市は存在しえず,鎮と住民が繁栄するためには上海に進出するか嘉興市など大都市の周辺地域として機能することが重要となったのである。

澉浦鎮の地方志には,《人品》の充実,《烈女》の項目化など記載面でも変化が生じている。また,浩瀚な天啓《海盐县图经》が存在する。それらを丹念に読み比べることで,宋代はもとより,産業や風俗などに関する近世から近代に至る変化までを検討することができるだろう。そして,それは市鎮という地域社会を通した中国近世史における宋代の位置を明確にすることにもつながるのではないだろうか。

【注释】

(1)復旦大学出版社2005年版。

(2)拙稿《烏青鎮の内部構造—宋代江南市鎮社会分析—》,《宋代人の認識—相互性と日常空間—》,汲古書院2001年版,第57—90頁。

(3)《東亜経済研究》第21巻第14期,1937年。

(4)池田静夫:《支那水利地理史研究》第六章第二節《外港—澉浦について》として再録,生活社1940年版。

(5)陳学文:《明清时期杭嘉湖市镇史研究》,群言出版社1993,第214—230頁。

(6)陳学文:《明清时期杭嘉湖市镇史研究》,群言出版社1993,第214—230頁。

(7)《四库全书总目提要》卷六十八。

(8)《北京图书馆善本目录》史部書目文献出版社1990年版,第673頁には,《海盐澉水志》8巻《宋常棠撰修》,《续澉水志》9巻《明董穀撰修,明嘉靖三十六年董穀刻本,呉騫跋》などと著録されている。

(9)《北京图书馆善本目录》史部,第672頁,《中国地方志聯合目録》(中华书局1985)第389頁では《清末》と著録されている。北京大,吉林大,南京大,南京図書館に所蔵。

(10)《澉志补录》書尾の呉亮《吴颖辅先生传》(1935)には,“清初,呉為龍撰再続澉水志,而原本竟未目睹”とある。

(11)祝静遠:《澉志补录序一》,程煦元:《同序二》,参照。

(12)中華書局1985年版。

(13)《北京图书馆善本书目》吏部,第673頁。

(14)瞿冕良編《中国古籍版刻辞典》,斉魯書社1999年版,第671、317頁。

(15)《中国地方志联合目录》,第189頁。

(16)虞志高:《续澉水志跋》。

(17)樊錐城《海盐县图经》,天啓四年(1624)本が现存する。

(18)《澉志补录·交通》。

(19)《澉志补录》。

(20)海津正倫:《中国江南デルタの地形形成と市鎮の立地》,森正夫編:《江南デルタ市鎮研究》,名古屋大学出版社1992版,第27—56頁。

(21)中国地図出版社2008年版。

(22)GeorgeB.Cressey,“The Land Forms of chekiang,china”,Ann als of Associ ation of American Geographers,Vol.28,No.4(Dec,1938):pp259—276.附図においては,農耕や森林造成に不向きな《Mount页ainl页ands》(標高数十から三百メートル程度)と区分されている。

(23)《澉水志·军寨门》。

(24)1978年に出土した官印9点の内2点が澉浦鎮の軍官のものであった。鮑翔麟:《海塩出土宋朝軍印初探》,《文物》1989年第9期,第79—82頁。

(25)《元史》巻九《世宗》。

(26)《续澉水志》巻5《兵卫纪·城池》

(27)伊汤安:《嘉庆府志》(嘉庆六年,1801)が该当するものと推测される。

(28)《澉水新志》巻三《堤海、海塘、永禁葫芦山采石》乾隆二十七年(1762)。

(29)《澉水新志》巻三《堤海·海塘》。

(30)《续澉水志》巻8《雑記·公移·軍民利便呈》。

(31)《续澉水志》巻三《雑記·祥異》。

(32)《澉水志水门》。

(33)《读史方舆纪要》巻91《浙江》:“永安湖在县西南四十五里。湖周十二里,灌田甚博。湖中之税于田,田税颇重,而无旱患。久雨弥漫,则东南洩入于海”。

(34)《续澉水志》巻三《贡纳纪》。

(35)本田治:《唐宋時代両浙淮南の海岸線について》,布目潮風編:《唐?宋時代の行政·経済地図の作製研究成果報告書》,1981年。

(36)大澤正昭:《宋代“河谷平野”地域の農業経営について》,初出《上智史学》(34号1989),《唐宋変革期農業社会史研究》(汲古書院,1996年),第258頁を参照。

(37)《续澉水志》巻八《杂记·澉浦千户所申文》。

(38)樊樹志:《江南市镇:传统的変革》,復旦大学出版社2005年版。

(39)巻四《贡赋纪》。

(40)《澉水新志》巻一《地理·风俗》。

(41)《续澉水志》巻五《兵卫纪》:“嘉靖三十年等,倭寇屡至,官府时加修葺换旧增新,势颇严正,但壕水虽阔而浅甚,深处不可过三四尺,风信之月,未暑先干,如履平地,无険可恃。”

(42)《武原志》《澉水志》は《直斋书录解题》と《宋史》芸文志には著録されていない。

(43)大庭脩:《漂着船物語—江戸時代の日中交流—》第六章,岩波書店2001年版。

(44)不著撰人名《海宁倭寇始末》不分巻(呉氏拝経楼鈔本)。

(45)《澉水新志》巻一《地理·风俗》:“田野小民,火耕水耨,兼以山煮海营生。”

(46)《澉水志》山門に“右十山,不种林木,官给亭户养草煎盐之所”とある。

(47)1270《澉水志》。

(48)乾道五年(1169)進士。楊万里《淳熙荐士录》(百部叢書集成《函海》),参照。

(49)拙稿《宋代の鎮駐在官》(《史学雑誌》第107編第4号1998年版,第39—66頁),参照。

(50)《宋史》巻四十四《理宗》。

(51)《宋史》巻四百二十一《包恢》。

(52)拙稿《宋代の鎮駐在官》を参照。

(53)《澉水志·寺庙》。

(54)すでに《唐律疏议》巻十一《长吏辄立碑》に見られる。清律には《见任官辄自立碑》(巻十七《礼律·儀制》に“凡见任官実无政迹,(于所部内),辄自立碑建祠者,杖一百。若遣人妄称己善,申请于上(而为之立碑建祠)者,杖八十。受遣之人,各减一等(碑祠拆毁)”との規定がある。これは明律の“見任官輒自立碑”(巻十二《礼律·儀制》)をほぼ踏襲したものである。

(55)張公堤,即中湖塘。康煕十一年,知県張公開濬永安湖,修閘築堤,有功水利。澉人為公立碑於堤上(注:張氏名素仁)。乾隆三十五年,濬湖築堤修砌閘座。里人感公徳為公建亭,与張公堤碑並列(注:鮑公名鳴鳳)(《澉水新志》巻七《名勝·古迹》)。

(56)《名公书判清明集》巻二《官吏·生祠立碑》。

(57)呂頤浩:(1071—1139年,封号成國公)と思われる。《宋史》巻365,参照。

(58)董穀:《续澉水志序文》。

(59)《日知录》巻二十二《生碑》。

(60)《澉水新志》巻四水利門《董汉阳与邓文岩別驾书》。

(61)《中华人民共和国地名词典浙江省》,商務印書館1988年版,第155—156頁。

(62)《澉志补录·风俗》。

(63)朱正元:《浙江沿海图说》(1899年刊本)を参照。

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