理论教育 五代北宋複都制研究: 洛陽文化都市的形成

五代北宋複都制研究: 洛陽文化都市的形成

时间:2023-07-20 理论教育 版权反馈
【摘要】:五代北宋における複都制の研究——文化都市洛陽の形成の背景久保田和男はじめに私は、都市論とともに首都論が必要であると考える。首都と都市との違いは、その政治性のレベルにある。中國歴代王朝では、首都を“京師”と称し、皇帝の宮殿や中央官庁、中央軍の所在地とする。また、五代の洛陽の文化面での寄与についても触れることはない。(一)五代の國都と複都制※ゴチックは首都、斜体は陪都。

五代北宋複都制研究: 洛陽文化都市的形成

五代北宋における複都制の研究——文化都市洛陽の形成の背景

久保田和男

(長野工業高等専門学校

はじめに

私は、都市論とともに首都論が必要であると考える(1)。首都と都市との違いは、その政治性のレベルにある。首都には、都市にないものがある。それは、首都機能である。首都機能とは、國家が存立するために首都を必要とする機能である。その機能は、國家の成立過程や統治形態によって、多様である。したがって、國家の歴史的な推移に対応して首都の機能は変化し、その首都機能を担う施設はその姿をかえ、首都の景観を変えてゆく。

中國歴代王朝では、首都を“京師”と称し、皇帝の宮殿や中央官庁、中央軍の所在地とする。一方で、特定の地方都市を、陪都として、方角で通称する、複都制を取るのが普通である。ただし、研究者からは、複都制は余り問題にされてきていない。そこには都市論の範疇ではない首都論という問題意識の貧困さがある。中國の場合は都市文明であるため、都市が普遍的に存在する。したがって都市論は盛んである。しかしながら、その都市を首都という特別な都市として認識することが十分に意識されてこなかったと思われる。そのうえ、複都制の機能については、まったく視野に置かれていない。(本稿では、首都と陪都を含めた概念として、國都を用いる。)複数の國都を持つと言うことは、國家がそれを必要としたからであり、國家統合と何らかの関係性をもった事態と言わざるをえない。したがって、複数國都を方法として國家の構造を考えることも必要なのではないか。

本稿では、五代·北宋を扱う。当該時代の國家がどのような意志をもって、どのような複都制を選択したのかを分析し、五代と北宋では、どのような点が違うのかを明らかにする。北宋の複都制については、かつて木田知生氏が論文の一部で分析されている(2)。木田氏は、この論文のなかで、開封と洛陽の対抗関係が、新法時代を中心として顕著になると共にそのなかで、文化都市として洛陽が位置づけられることを明らかにされている。大変興味深い指摘であるが、残念ながら、五代までさかのぼっての分析が行われていないので、北宋の複都制の性格も比較都城史的に解明されるまでには至っていない。また、五代の洛陽の文化面での寄与についても触れることはない。本稿では、これらの問題を五代にさかのぼって、複都制の観点からその構造を解明する試みである。

(一)五代の國都と複都制

※ゴチックは首都、斜体は陪都。

五代中原國家は、唐の後をうけ、北中國を支配した五つの國家群を指す。伝統的な中國史学では、“正統王朝”とされているが、王朝の存続年代は、最短の後漢では、四年ほどしか無く、その他の王朝も五十歩百歩である。ただし、この五代の最後の王朝である後周の後継國家として北宋が成立した関係で、正統國家と見なされてきた。

後梁·後唐·後晋·後漢·後周である。これらの王朝は、複都制を取っていた。洛陽と長安を東西の都として、唐朝の制に復した後唐を別として、開封と洛陽を東西の京としている。また、魏州が鄴都として陪都である時代もあった。主に、この三京の関係について、本節では検討する。従来、五代の國都といえば開封とされているが、洛陽と開封、あるいは魏州(鄴都)の関係を、複都制として理解する方法を用いて、再検討する必要がある

1.後梁の複都制について

後梁の太祖朱全忠は、唐からの禅譲をうけて即位するが、唐とは首都制度を大幅に変えている。

续表

古者兴王之地,受命之邦,集大勋有异庶方,沾庆泽所宜加等。故丰沛著启祚之美,穰邓有建都之荣,用壮鸿基,且旌故里,爰遵令典,先示殊恩。宜升汴州为开封府,建名东都。其东都改为西都,仍废京兆府为雍州佑国军节度使。(3)

以上のように、開封は、“興王之地”を都とするという周·漢代にさかのぼる典拠に則って、東都として建都されている。洛陽を西都としたため、従来の西都長安は廃されて、雍州佑國軍節度使とされた。後述するように唐末、長安の宮殿などの建造物や住民は、洛陽に移され、“丘墟”となっていた。したがって、國都より降格されたと推測される。

両都のうち、開封と洛陽のどちらが京師(首都)であるのかという問題を考えてみよう。それには、首都機能に言及する必要がある。結論からすると、この時期は、洛陽の首都機能のほうが比較的整備されていた。その事業は、唐末の天復年間(901—904)に行われたため天復修都という。

洛陽は、唐末、黄巣の乱(874年から884年)の被害を受け、宮殿だけでなく、都市全体が、廃墟となり、住民もほとんど離散してしまう(4)。その後、洛陽を根拠地にした小軍閥張全義は、農地としての再開発に努め、洛陽周辺は戦乱の時代において農産物の豊富な地となる。張全義は、汴州を根拠地としていた朱全忠と連合し乱世を生き残ってゆく。朱全忠の覇業には、張全義が供給する農業生産物の役割が大きかったと言われている(5)

唐末、朱全忠は、傀儡となっていた唐昭宗に、西都長安から東都洛陽に遷都させる(6)。開封に近いところに置くためであったという。それに先立ち張全義に宮殿の再建を命じる。その事業は乾寧三年(896)ごろからはじまったようだ(7)。天復四年(904)皇帝の東遷に先だって、長安の士民が洛陽に移され、その列は“月余不绝”という状況だった(8)。続いて長安の宮殿·官衙·民居などが解体され、用材は渭水から黄河に下され洛陽の工事に使用された。この結果、長安は廃墟(“丘墟”)となったという(9)

金子修一氏によると(10)、唐最後の皇帝、哀帝(昭宣帝)はその翌年天祐二年(905)十月に洛陽で郊祀の準備を行った。唐後半における皇帝親祭は、太清宮(長安の老子廟)·太廟·南郊の順で一日ごとに祭礼を行った。太微宮(洛陽の老子廟)は破壊されていたので、哀帝は北山の玄元観を解体して移築したという。これは、“天復修都”の実態をよく表している。万事不如意の乱世にあって、唐の文化遺産を収集する形で洛陽に伝統的首都機能が復興されたのである。ただし朱全忠は、昭宣帝が天命の存在を示す郊祀を実施することを許さなかった。後に、洛陽の郊祀施設では、朱全忠が即位後に郊祀を実施している。

さて開封で、朱全忠が唐帝より禅譲を受けた後も、皇帝朱全忠とその政府は東都すなわち開封にあった。したがって、後梁は、開封を首都にした最初の國家として、知られている。ただし、つぎの資料は注目させられる(11)

帝、以用軍、未暇西幸。文武百官等、久居東京、漸及疑訝。令就便各許帰安。只留宰臣韓建·薜貽矩·翰林学士張策·韋郊·杜暁·中書舎人封舜卿·張袞並左右御史·司天監·宗正寺、兼要当諸司節級外、其宰臣張文蔚已下文武百官、並先於西京祗侯。

とある。したがって、907年の後梁建國当初から、東京開封府ではなく、西京河南府に政府を置くことが決まっていたことを示す史料である。後梁の本来の京師は洛陽だったのである。例えば、《五代会要》巻2、廟儀、開平元年四月の条(12)には、“梁開平元年(907)夏4月、太祖初受禅、乃立四廟于西京。従近古之制也。”とある。

翌年四月二十四日に西京で南郊することが決定された(13)。工事の遅延を理由として(14)、再三延期され、結局、遷都と郊祀は開平三年(909)の1月に行われた。郊祀のための一連の施設は、首都機能を担うものといえる。郊祀を太祖は開封では執り行っておらず、郊祀に必要な施設を建設していない。郊祀とくに即位の際の郊祀は、親祭で行う重要な儀礼である。これを、時期を遅らせてまで洛陽で行ったのはなぜであろうか。

洛陽には、先述したように天復修都で整備された宮室や太廟などの首都機能をになう施設が存在していたことと、やはり洛陽という伝統的な都市で即位の儀礼を行うことの政治的な意義が、当時は大きかったものと思われる。

乾化二年(912)、朱全忠は、第3子の朱友珪に殺害され、その帝位を奪われた。その年の内に、第二代皇帝である朱友珪は、禁軍の反乱に遭い殺害さる。この簒奪劇の舞台は洛陽である。このような状況受け、東京留主開封尹として開封にあった朱友貞(後梁末帝)が帝位を継承する。

この末帝は東京(開封)で即位する。洛陽ではなく開封であった事情について《旧五代史》巻八、梁末帝紀、乾化三年(913)二月十七日、115頁には次のように記されている。

事定、(袁)象先派遣趙巌齎伝國宝至東京、請帝即位於洛陽。帝報之曰“夷門、太祖創業之地、居天下之衝、北拒并·汾、東至淮·海、國家藩鎮、多在厥東、命将出師、利於便近、若都洛下、非良図也。公等如堅推戴、冊札宜在東京、賊平之日、即謁洛陽陵廟。”

末帝の発言を文字通りに考えると、次のようになろう。当時、焦眉の急は、後梁にとって“賊”である晋王李存勗(山西省·太原が根拠地)の河北経略に対抗することだった。父李克用の死後、その軍団を引継いだ李存勗は、911年、鎮·定に自立する王鎔の趙と同盟し河北経略の足掛かりとし、913年には劉守光の燕を併合する。未帝の開封遷都はこのような李存勗の河北における勢力拡大への対抗策だったと考えられる(15)。すなわち“命将出師”するには、親藩が付近に多い開封にいる方が有事の出兵に便利であるし、地政的にも攻防の焦点である魏州を援護するのに開封は適当な地であると考えていたようだ(16)

一方、このような理由をのべる政治的背景も考えなければなるまい。末帝は、袁象先に擁立されわけである。功臣である袁の勢力は洛陽にある。したがって、一方で、開封を地盤とする末帝は、袁の制御下にある洛陽には素直に赴けないのである。末帝は、洛陽に行かないとは言っていないのである。しばらくは開封に居るが、やがて洛陽に遷都するという含意である。

“賊平之日、即謁洛陽陵廟。”とあるように、末帝時代にも儀礼の首都機能は依然として洛陽にあった。太祖朱全忠の宣陵は、河南府の所轄する伊闕県(17)にあった(18)。末帝は貞明三年(917)十二月に郊祀を実施するため、洛陽に行幸している。即位後の親祭による郊祀を行おうとしたのである。実際は、李晋軍が、要衝の地を奪い開封に迫っているという報が至ったため、太祖陵には参拝したものの、郊祀を中止して開封に戻る(19)

したがって、後梁末帝時代(913年—923)には、皇帝並びに中央政府の所在地は、東京開封府であった。一方、南郊や太廟は、西京河南府(洛陽)に有った。政治と祭祀のそれぞれの首都機能を東西両都が分有していた。首都がどちらであるとはいえない分離首都ともいえる状況にあったといえる。

2.後唐の複数國都制

后梁龙德二年(922)四月、晋王李存勗(後唐莊宗)は魏州において帝位につき、國号を“唐”と称した。魏州の南郊に壇を築き、皇帝即位を天に報告した。魏州は東京興唐府となり、太原は西京、陳州を北都と称することになった(20)。彼はその年の十月、後梁を滅ぼし華北を統一する。この際、官名·府名など梁が改めたものは、復旧することが命じられている(21)。梁の東京開封府も、もとの汴州に戻ったのである。暮れの十二月、首都を洛陽に移した(22)。同光三年,洛陽を洛京あるいは東都、長安を西都、太原を北都、魏州を鄴都とした(23)。四京制である。後唐は“大唐”の後継王朝と自称していた関係で、長安·洛陽の両京を復活した。“興王の地”は太原である。また、魏州で即位している。このため、この両都市が建都されたと考えられる。

なお、天成四年(929)鄴都の反乱後、鄴都は降格され魏府と称される。その際、魏府とともに汴州や益州の宮殿の鴟尾を除去し、建物は節度使の治所に流用されている(24)。鴟尾が皇宮の象徴であったことがわかる。陪都の宮殿でも使用されていた。しかし鴟尾は撤去したもの、殿閣の殿額は、そのままにされていたという。後唐の明宗(李嗣源)や、後晋の高祖(石敬瑭)は、長期の駐蹕を陪都ですらない汴州で過ごすが、その際にこの後梁のもとの宮殿に懸けられたままの扁額を問題とする官僚もいたという。

後唐では、洛陽の南郊で荘宗と明宗が一度ずつ南郊で親祭している(25)741。その制度は、唐制を踏襲し、老子の廟(太微宮)·太廟·郊壇の順で祭礼を行うものであった。《旧五代史》巻142、礼志、1893頁には、

唐同光二年六月,太常礼院奏:“国家兴建之初,已于北都置庙,今克复天下,迁都洛阳,却复本朝宗庙。按礼无二庙之文,其北都宗庙请废。”乃下尚书省集议。礼部尚书王正言等奏议曰:“伏以都邑之制,宗庙为先。今卜洛居尊,开基御宇,事当师古,神必依人。北都先置宗庙,不宜并设。况每年朝享,礼有常规,时日既同,神何所据。窃闻近例,亦有从权。如神主已修,迎之藏于夹室;若庙宇已崇,虚之以为恒制。若齐桓公之庙二主,礼无明文,古者师行,亦无迁于庙主。昔天后之崇巩、洛,礼谓非宜;汉皇之恋丰、滕,事无所法。况本朝故事,礼院具明,洛邑旧都,嵩高正位,岂宜远宫阙之居,建祖宗之庙。事非可久,理在从长。其北都宗庙,请准太常礼院申奏停废。”从之。

とあるように、宗廟とは、“都邑の制”で最優先の首都機能とみなされていた。後唐では、皇帝とその政府は、洛陽に所在しており、宗廟の所在地と一致したのである。宗廟は、もともとは北都(太原)にあったが、首都の移転によって、洛陽に移されている。

以上のように後唐は、東都洛陽京師体制であり、北京(太原)·西京(長安)についての史料はほとんど無いので推測ではあるが、恐らくは名前だけの陪都であった。後唐は、開封を汴州に格下げして國都(陪都)から外した。しかし、軍事財政的あるいは戦略的重要性は相変わらずであった。開封は実質的には陪都であった。莊宗と明宗の間で行われた内乱では、いち早く開封をおさえた明宗が勝利した。莊宗は、禁軍の軍糧を供給できなくなり敗亡する。即位した明宗は、洛陽で軍糧が不足すると、禁軍を率いて巡幸し長期にわたって開封に駐蹕する(天成二年十月から四年二月まで)。

ところで、各地を荒らし回る黄巣の反乱軍に対応するため、唐末には、地方政治は、節度使とその麾下の牙軍に掌握されるようになった。これが、五代十國の形勢を作り出した。そのなかで、中央集権的な國家秩序を回復するためには、皇帝親衞軍(禁軍)の強化が求められたのである(〔菊池1956〕)。傭兵制であるために家族も首都に居住することになり、これまで以上に首都の軍糧確保が緊要になった(〔久保田2007〕101頁以下)。

五代の君王は、あたかもローマ帝國の軍人皇帝のように禁衞軍の待遇を重視する必要に迫られるようになった。そのためには、開封のような交通上の要地に所在している都市に、禁衞軍とともに駐在する必要が出てくる。後唐の明宗や後晋の高祖の開封駐蹕がそれである。いわゆる”就食行」である。洛陽が首都であるという建前ではあり、南郊祭祀や太廟などはそこに留め置かれるものの、軍糧を禁軍兵士とその家族に与えなければならないため、開封に駐蹕したのである。のちに開封が首都となるという流れがこのようにして出来てくる。

3.後晋における分離首都制·開封と鄴都への巡幸と駐蹕。

後唐の次におこった後晋では、建國当初は、後唐の制に準じ、洛陽を洛京あるいは東都、長安を雍京、太原を北都とした(26)。京師は洛京である。しかし、石敬瑭(高祖)は、汴州に巡幸しそのまま、首都としてしまう。その詔勅は、前項の事情を反映したものとなっている。

念京城俶扰之后、属舟船焚热之余。馈运顿亏、支费殊欠。将別谋于飞輓、虑耘困于生霊、以此疚心、未常安席。今夷门重地、梁苑雄藩、水陆交通、舟车必集、爰资经度。须议按巡、宁免暂劳,所期克济。取今月二十六日、巡幸汴州。

とある。後晋建國から1年後の汴州巡幸は、別の資料によると、魏府の節度使范延光の反乱にそなえる意味もあったという(27)

後晋の汴州では、後梁の宮殿を、“大寧宮”と称した。先に後唐明宗も、汴州に長期にわたり駐蹕することがあった(天成二年十月から四年)が、汴州の梁の宮殿には、往事のまま、各宮殿に殿額が掛かっていたという。都でないのに、殿額だけあるのはおかしいと、当時問題になった。そこで、このたびは、開封の行闕(臨時の宮殿)に“宮名”を与えることになった。これは大唐の先例(行幸滞在先に宮を設ける)にならったものだった(28)

魏府の范延光が帰服したのが、翌天福三年九月である(29)。十月には、ついに、汴州において遷都の詔が下される。

当数朝战伐之余,是兆庶伤残之后,车徒既广,帑廪咸虚。经年之輓粟飞刍,继日而劳民动众,常烦漕运,不给供须。今汴州水陆要冲,山河形胜,乃万庾千箱之地,是四通八达之郊。爰自按巡,益观宜便,俾升都邑,以利兵民。汴州宜升为东京,置开封府。(30)

“车徒”は、《周礼》夏官、大司馬に使用されている語句である。注を参照すると戦車と歩兵を合わせた熟語であることがわかる。軍隊を指している言葉である。すなわち“車徒既広”とは軍隊の増大を指摘している。それに対し“帑廩みな虚し”と洛陽の穀物倉庫が満たされていないことを指摘している。そのうえ、洛陽への漕運の実績は“須むるを供するに給らず”とし、それに対して開封には漕運の便があることを述べて、開封を東京とする理由としている。この詔勅は続いて、“其洛京改为西京;其雍京改为晋昌军,留守改为节度观察使,依旧为京兆府。”と述べており、洛京を西京とし、雍京(長安)は、陪都から外されたことがわかる。

ただし、後晋·後漢では、太廟や郊祀施設などは、依然として洛京(西京)に置かれていた。皇帝親祭は一度も行われなったが、有司摂事により、天地に対する祭儀が行われていた(31)。したがって、後梁末帝期に続いて、首都機能の分離という事態になった。翻ってみるとこれは異常事態である。一つの都市に“右祖左社,面朝后市”という位置関係で、太廟や社稷、政庁などが配置されるのが、《周礼》に見られる理想的な首都の形態なのである。したがって、開封は、依然として、魏州(鄴都)などと、同レベルの臨時的な軍事的拠点であり、京師とするべきは洛陽であるという共通意識が一方に存在していたことが推測される。これは、次に述べるような事例によって、裏付けられる推論である。

魏府(魏州)は、節度使范延光の帰服·引退後、再び建都され鄴都と称された(32)。この3年後さらに石敬瑭は鄴都に百官六軍を引き連れて移動する(33)。1年間駐蹕したのち、この地で病没している。鄴都では、駐蹕期間中、諸門に雅名が与えられた。また、都亭駅(契丹使臣を迎えるための迎賓館)も置かれるなど、単なる巡幸とは考えられないほど、鄴都の首都機能は整備されるのである。上元観灯が行われ、禁軍家族も移住させられるなど、遷都に近い巡幸であったことといえる(34)

魏州は、華北平原の中央に位置していることから、五代や金のように中國が南北に分裂したときに、繁栄する地政学的傾向にある(35)。河北の平原中心に位置するため、南北の統一が破れたとき、ローカルエリアの経済交通上の中心地として経済的重要性が高まるのである。それに対し、汴州は、南北中國をつなぐ大運河の要衝である。大運河が接続するとき、インナーチャイナにおける交通の中枢を占めるようになる。したがって、南北中國が統一の形勢に向かった五代末期には、國都としての価値がより高まったのである。鄴都と開封は、五代中原國家の版圖においては、経済的要地として、同じ程度の次元にあったと思われるが、全國的な交通が可能になると、その差は大きくなる。

さて、後晋の高祖は、鄴都に遷都した。契丹からの援助によって建國した高祖は、華北地区の中心、鄴都を選択した。これは、天下統一ではなく、地方政権としての安定を優先していると考えられる。契丹への服属の意志を感じる。

天福七年(942)六月、高祖が病死する(36)。つづいて即位した石重貴(出帝?少帝)は、天福八年(943)二月開封に戻る(37)。これより、後晋は契丹からの自立を図るのである。

4.後周における開封集権化の進展·洛陽の陪都化。

後周、広順3年(953)鄴都は地震に襲われ大きな被害を出している(38)。翌年顕徳元年(954)、鄴都は廃され天雄軍節度使に戻される(39)。この措置は地震による被害が原因とおもわれるが、一方で、後周王朝が南北統一の意図と実力を備えた國家となり、開封の重要性がより高まったこととも関係しよう。

南北の結合を象徴する大運河の修復は、その翌年、後周世宗顕徳二年(955)に行われる。無論この時点では、統一には至っていない。南北交通の復活を期すというよりも、南唐に対する遠征軍を送るためであった(40)。ただし、運河復旧に応じて、南方の商人が来訪する期待があり、先行投資も行われている。内陸水運の泊地整備である(41)

周世宗显德中,遣周景大浚汴口,又自郑州导郭西濠达中牟。景心知汴口既浚,舟楫无壅,将有淮浙巨商贸粮斛贾万货临汴,无委泊之地。讽世宗乞令许京城民环汴栽榆柳,起台榭,以为都会之壮。世宗许之。景率先应诏,踞汴流中要,起巨楼十二间。方运斤,世宗辇辂过,因问之,知景所造,颇喜赐酒,犒其工,不悟其规利也。景后邀钜货于楼,山积波委,岁入数万计。今楼尚存。

とある。後周世宗は、周景威に命じて汴口(黄河から汴河が分流する口)を整備させ、大運河再開の準備をする。ただし、“委泊の地なし”とあるように、汴河沿岸の商港設備は不十分だった。そこで、沿岸の整備を、周景威は世宗に提案している。その意見によると、沿岸にニレやヤナギを植林し、台榭(大規模な建造物)を建て、首都の権威を象徴するような壮麗な景観を形成することが提案されている。この下文によると、この後、周景威自ら十三間楼なる巨大な邸店を建設し、巨利を博するようになった、という。これは、旧宋門内の汴水に臨む地に建てられ(42)、北宋末までその姿をとどめていた(43)

五代の東京開封は、唐の宣武軍節度使の時に築かれた城郭(周囲約11km)を踏襲しており、規模は、唐の洛陽(周囲約27km)や長安(周囲約37km)に比べると、地方大都市のそれである。後周世宗の時代に、この城郭の外側に外城(周囲約27km)が建設された。これは、統一國家を目指して唐の規模を追求したというわけではなく、増大する行政組織·禁軍·商人たちの需要に対応するためのものだった(44)。顕徳二年(955)より始まったこの工事は3年の工期で完成した。

ところで、後周でも建國当初、郊壇·太廟以下の祭礼施設は洛陽に置かれており、宰臣を遣わして太廟で即位の報告を行わせている(45)。ただし、ついに太祖末年、郊祀を開封で実施することになった(46)。官僚の議論の中で、洛陽で行うことに対する疑念が表明されており、首都開封の意識上の確立といえる(47)

帝欲祀南郊,又以自梁以来,郊祀常在洛阳,疑之。执政曰:“天子所都则可以祀百神,何必洛阳!”于是,始筑圜丘、社稷坛,作太梁。

とある。後周においても当初は太廟は洛陽に置かれていた。神主を開封にむかえ、開封南郊で、郊祀が太祖親祭で実施された。太廟と社稷の位置は、《周礼》考工記を参考として設定された(48)

4.五代後期の洛陽と北宋洛陽の文化力

開封が首都として確立してくる過程で、洛陽には陪都としての独特の機能が表面化してくる。後晋朝から、病気などを理由として、実職を伴わない官職を与えられ分司西京という扱いをうけ洛陽で生活する官僚の記事が散見されるようになる(49)。同じ陪都である太原や魏州への分司官はほとんど見あたらない。例えば、《旧五代史》巻93盧詹(せん)伝、1231頁には、

盧詹……天福初,拜礼部尚书,分司洛下,与右仆射卢质、散骑常侍卢重俱在西都,数相过从。三人俱嗜酒,好游山水,塔庙林亭花竹之地,无不同往,酣饮为乐,人无间然,洛中朝士目为“三卢会”。常委顺性命,不营财利。开运初,卒于洛阳。

とあり、盧詹らの三人の盧姓の高官による半隠退生活は、理想的なものとして描かれている。そして、“洛中朝士”達の間で注目を集めていたことという。このようなローカルな情報を共有する“朝士”の小社会が“洛中”に成立していたのである。なぜ、洛陽が彼らの引退生活を送る場所、あるいは死に場所として選ばれたのであろうか。

洛陽は伝統中國の都市であり、古寺仏閣が残っていたし、すぐれた山水の景があった。それだけではなく、東京開封府に比べて、物価が安く生活しやすかったともいわれている(50)。注目すべきは、《旧五代史》周書の列伝において、“西京の私邸で卒す”という表現が散見されることである(51)。彼らは、洛陽に私邸を持っていた。さきに明らかにしたように、後唐明宗時代、都城空間を再建するために後唐政府は、積極的に建設を促しており、土地や建築費を提供していた。その影響で、官僚士大夫には、洛陽に私邸を保有するものが少なからずいたと考えられる(52)。一方、北宋では首都開封に邸宅を構えることは、賜第でも受けない限りできなかった。それは最高の恩典である。開封内に借り家住まいである場合が多かった(53)。五代後半に於いても、開封に“税居”する官僚士大夫の逸話が《旧五代史》に引用されている(54)。先に触れたように、後周の世宗が、外城を建設した理由は、都城空間における用地不足であった。開封集権化が進むなかで、士大夫たちの私邸を構えることが難しくなっていった状況がうかがわれる。このような時代的制約のなかで、洛陽に引退後の士大夫が住むようになったのであろう。なお、彼らを管理するために、留司御史台が置かれていた。分司官らにも、いささかの義務があり、それを守らないものが致仕に追い込まれることもあった(55)

このような文人の退休の場ともいえる陪都洛陽の都市空間の機能は、北宋に引き継がれてゆく(56)。開封の賃貸家屋で暮らす現役の実務官僚たちとは異なり、私的に邸宅を構え半引退生活を送る官僚たちは、唐代からの園林の伝統に従い、数多くの庭園を構えている。たとえば、(57)“(張居業)尝过洛,嘉其山川风物,曰;‘吾得老于此足矣。’观于是买田宅,营林榭,以适其意。”とあり、父親のために息子が、洛陽の田宅を購入し、“林榭”を営んでいる。范仲淹は、子弟より、“治第洛阳,树园圃,以为逸老之地。”という提案を受けるが、やんわりと拒絶している。そして、“且西都士大夫园林相望,为主人者莫得常游,而谁独障吾游者?岂必有诸己而后为乐耶?”(58)とのべている。士大夫の園林が相望むという、園林都市がイメージされる史料である。士大夫の園林については、南宋時代に《洛阳名园记》としてまとめられている(59)。開封の軍営都市的(北宋後半は経済都市)な景観とは、対照的な“园林都市”ともいえる都市景観が、この五代後半北宋中期にかけて成立したのである。これは文化的景観と呼ぶことができよう。

五代洛陽における代表的文化人は、楊凝式である。《游宦纪闻》(60)

凝式虽仕历五代,以心疾闲居,故时人目以“风子”。其笔迹遒放,宗师欧阳询与颜真卿,而加以纵逸。既久居洛,多遨游佛道祠,遇山水胜概,辄留连赏咏,有垣墙圭缺处,顾视引笔,且吟且书,若与神会,率宝护之。

とある。彼は、その出自と才能から、五代歴代王朝で高官になったが、時に“心疾”を称して洛陽に休養し、やはり、周辺の山河と寺観に親しんだ。彼も後晋の開運年間に分司官となった。後周時代に致仕となり、顕徳元年(954)洛陽で死去している(61)。周知のように彼は、書家として有名で、後世蘇軾·黄庭堅·米芾らによって高く評価され、学ばれた(62)

詩人としても優れていた楊凝式は(63)、すぐれた景色にであえば、詩を吟じ、それを牆壁に書き付けたという(64)。その書風は“狂草”とも称されるもので、顔眞卿にも通じるとされるものあったという。《洛阳搢绅旧闻记》巻一“少師佯狂”(65)には、

……故寺观墙壁之上,笔迹多满,僧道等护而宝之。院僧有少师未留题咏之处,必先粉饰其壁,洁其下,俟其至。若入院见其壁上光洁可爱,即箕踞顾视,似若发狂,引笔挥洒,且吟且书,笔与神会,书其壁尽方罢,略无倦怠之色。游客睹之,无不叹赏。……

とある。このように、彼は洛陽で壁書を書き続けた。当時の洛陽の200あまりの寺観に、彼の壁書が見られた(66)。彼の壁書が、洛陽の人々に非常に歓迎されていたといえよう。《清异录》巻下(67)には、“少師楊凝式、書畫獨歩。一時求字者紙軸、堆疉若垣壁。”とあり、軸を求める人々も沢山いたことが分る。壁書の書き殴られたような草書作品から、洛陽の人々はどのようなメッセージを感じたのであろうか。

ところで、楊凝式が、官僚としては駆け出しの頃、朱全忠の簒奪劇があった。彼の父、楊渉はそのなかで、玉璽を奉送するという重要な役割を保身のために担う。そのときに激しく諌めたのが楊凝式であった(68)。朱全忠からの弾圧を避けるため、楊家では、彼が“発狂”したとした。その後楊凝式は、五代各王朝に出仕しており、それが、“佯狂”であることがわかる。しかし、絶えず、“狂”が発したと称して、洛陽で休養している。これは、武断政治からの逃避である。しかし、表だっての批判はしてはいない(69)。とすると、奔放な書体や、壁書という独特の表現などは、政治批判のメタ表現であったといえよう。[彼は、皇帝の一族が、洛陽の長官(西京尹)として来ていても、傲然とした態度で会釈もしなかった(70)。これも、開封を中心とする軍閥政権の武断政治への批判的な行動といえる。]壁書は、通常の書道作品と違い、誰もが見ることが可能なメディアである。かれの壁書は、洛陽の人々にメッセージを伝え続けたのである。壁書のもう一つの特色は、その土地と密着した芸術品であることだ。現在のウォールアートを想起すれば了解されるように、景観の一部になっていた。洛陽の至る所で見られた“狂草”と称される草書体の壁書から発信される楊凝式のメッセージは、彼の死後においても、洛陽の空間に独特の雰囲気をもたらしたと考えられないだろうか。

《洛阳搢绅旧闻记》卷一第310頁によると、“其寺观所书壁,僧道相承保护之.至兴国九年,大水湮没,墙壁摧坏,十无一存.可为惜之!可为惜之!”とあり、太平興國九年(この年の11月に雍煕1年と改元。984)の大水が壁書の多くを破壊したとする。ただし《長编》や《宋史》の同年の各条には大水の記事は見あたらない。一方、前年の太平興國八年に、洛水があふれ、“坏官寺民舍万余区”(71)という大きな被害が出ている。“九”年は“八”年の誤りであろう(72)。前掲《東觀餘論》の下文には、“今(徽宗時代)壁書亦自少。洛阳惟有广爱寺,西禅院两壁、胜果院一壁、天宫寺一壁而已。因甲子岁大水,损失者多矣。”とあり、洪水が、洛陽を襲ったため、数壁を残して無くなってしまったという。この“甲子大水”は、元豊7年(1084)のことである(73)。このように数度に渡る洪水によって、北宋末にはだいぶ少なくなってしまっていたようだ。ただし残っているものを見ることはまだ可能だったのである(74)。また、収蔵され珍重されたものも記録されている(75)

楊凝式を評価した文人の一人としては、欧陽修が挙げられる(76)。欧陽修は、若き日に、西京の属官に配属されている。そこで、西京留守である、銭維演に誘われて、文学サークルに入って活躍したという。《东轩笔录》巻3、中華書局1982、29頁には、

钱文僖公惟演,生贵家,而文雅乐善,出于天性.晚年以使相留守西京,时通判谢绛、掌书记尹洙、留守推官欧阳修,皆一时文士,游宴吟咏,未尝不同.洛下多水竹奇花,凡园囿之胜,无不到者。

とある。洛陽の風致が彼らの文学活動の源となっていた。すなわち文化的景観が文化を生み出す力(文化力)を育んでいることが示されている資料である。このような“遊宴吟詠”の機会に、壁書を実見していたであろう。その場で楊凝式に対する再評価がおこなわれたと考えられる。楊凝式の壁書はその文化的景観の一部となっていたのであろう。

一世代後の、文彦博は、洛陽の私邸に楊凝式の壁書や帖を積極的に収集していた(77)。楊凝式の邸宅は、洛陽の延福坊にあったが、文彦博は、その邸宅を手に入れて、邸宅にすると共に家廟を建てている(78)。楊凝式は、自宅の壁にも壁書を書き込んでいたのである。また、元符三年(1100)進士である黄伯思は“洛阳文潞公家,有杨书诗帖十一纸。字与珊瑚帖相类。”(79)と証言している。彼はおそらく実際に鑑賞したのである。煕寧元豊時代、時として司馬光や富弼ら退休官僚達の集まりとして洛陽耆英会が行われていた。文彦博の屋敷でも開かれたこともある(80)。とすると、文彦博の所を訪れる士人達は当然、楊凝式の壁書や帖を鑑賞し、感想を述べ合うであろう。開封の中央政府に批判的だった楊凝式の書は、旧法党官僚たちの共感を生んだはずである。

木田知生氏は(81)、北宋煕寧元豊時代、いわゆる王安石新法の時代に、改革政治に反対して中央政界を離れた官僚が洛陽に集まるようになったことに注目した。それらの多くは、北方出身の官僚たちを中心としていた。王安石をはじめとして、新法派のメンバーの多くは、江南出身者で占められていた。やや図式的なきらいはあるが、この事態は、開封と洛陽の対抗関係として説明可能なのである。司馬光の歴史学、程氏兄弟らの道学が栄えた洛陽は、学術都市?文化都市という色彩を帯びたことを、木田氏は強調された。本稿は、五代の複都制の観点から構造的に、この論点を補足したものである。

開封の皇帝に奉仕する翰林院を中心とする公的な文化(及び庶民文化)に対して、文人文化を発信する“文化力”は、これまで見てきた五代後半以来、洛陽に形成されてきた開封への対抗意識を内包する文化的空間を背景として成立したといえるのである。士大夫達が、私邸を持つことができない首都開封の状況が、西都洛陽の園林空間の形成に関係していた。すなわち、両都対抗の構図は、開封中心体制が確立に向かっていた、五代後半期にすでに胚胎していた。五代における複都制が、開封集権体制に収斂される経過の中で生み出されたものなのである。

(二)北宋の複都制について

北宋は、後周の制を受け継ぎ、東西両京制、開封が首都、陪都が洛陽で建國した。その後、南京が三代目の真宗、北京が、四代目の仁宗の時期に建都され、四京制となる。五代の複都制に匹敵する構えとなったわけであるが、そのあり方は、五代とは大きく様相を異にするものとなった。

1.東京開封中心体制の確立と西京洛陽

太祖趙匡胤は、南唐(江南國)を征服した開宝九年(976)四月、洛陽で郊祀をするため行幸する(82)。これは天地をまつる冬至のものではなく、四月孟夏に天に雨を乞う、“雩祀”であった(83)。行幸自体にも反対論が強かったが、さらに洛陽での郊祀を行った後、太祖が、洛陽遷都を表明したことは、強い反対を受けることになる。反対をしたのは、太祖の実弟趙匡義に関係を持つ者たちだった。最後には、趙匡義が、“山河の険”に頼ろうという太祖の主張に対し、“在徳不在険”と反論し、太祖は遷都を断念したらしい。太祖は、この年の内に病没し、趙匡義(太宗)が帝位を継承したため、開封首都体制が確立することになった。太宗派の考えは、大規模な常備軍を首都に集中することによる中央集権体制である。そのためには、大運河による南北交通を最大限に利用できる開封が、首都であることが必要だったのである。太祖が企図した軍縮は行われず、統一後も、常備軍(禁軍)は増大の一途をたどり、國家財政に重い負担となってゆく。

一方、北宋の西京河南府(洛陽)は、完全な陪都となった。政治的にはもちろん儀礼的な首都機能も、東京開封府に集中された。五代後半に引き続き、洛陽には、留司御史台がおかれ、病気がちの官僚が休養するポストとして利用される。そして先ほど述べたような文化都市洛陽として、政治都市開封と対比される陪都となる。

2.南京応天府について

真宗朝時代、宋州は、“興王の地”ということで建都される(84)。太祖趙匡胤が、即位前に宋州の節度使であり、宋という國号もそれにちなんだものだった。しかし、計画はされるものの、宮殿などの整備は、結局、行われなかった。蘇軾によると、真宗が行幸した際の御製詩碑の亭ですら、草むらの中で傾き、人が入ることができない有様だったという(85)。留司御史台が置かれていたことが、陪都らしいところだろうか。ところで、靖康の変によって、開封が占領され、徽宗?欽宗が金の捕虜になった際、欽宗の弟、康王はこの南京で即位する。しかし、留まることはできず、長江をわたり南宋を建國する。

3.北京大名府の建都について-慶暦の治前史

かつての鄴都は、仁宗の慶暦二年(1042)に建都されている。後周に廃都されてより、100年近くを経ての再度の建都である。五代の時とは、建都事情は、幾分異なるようである。この建都を巡っては、士大夫官僚による國防政策や、首都制度を巡る議論の上での建都である。最後に、この問題について若干の検討を試みたい(86)

これに先立つ宝元元年(1038)、タングート族が西夏を建國し、李元昊は、“大夏皇帝”を称した。西夏戦争の勃発である。宋軍は、数度にわたる大敗北を期するが、改革派官僚の范仲淹·韓琦らが陝西路に赴いて、戦力と戦術の整備を行うと、勝ちはしないものの、西夏がわも手詰まりとなる状況となり、1044年、慶暦の和が結ばれる。

ところで、この北宋の窮状を見て、契丹は、慶暦二年(1042)に宋に使者を送り、瓦橋関の南の10県を要求する。これらは宋太宗時代に、宋が併合したものである。契丹の南進を予測した朝廷では、洛陽の城郭を修築し、変事に備えるべきであるという、数年前の范仲淹の意見を採り上げる動きが起こった。

これより以前、景祐三年(1036)、開封府の知事だった范仲淹は、“太平ならば東京通濟の地におり、もって天下に便たり。急難ならば、西洛険固の宅に居し、もって中原を守る”と主張し、洛陽に軍糧を備蓄しておくべきこと提案している(87)。このときは宰相呂夷簡と対立し、左遷される。この提案が1042年、再び脚光を浴びたのである。これに対し、呂夷簡は、後方の洛陽の防衛機能を整備することは、契丹に弱み見せることになり、かえって、調子づかせてしまう、景徳の役の時(1004)には、皇帝が親征して黄河を渡ったからこそ、契丹は和約に応じたのだ、大名を建都して、親征の意志を明確にすることにより、契丹の軍事行動を起こさせないと、主張する。彼は1004年に25歳である。恐らく寇準の積極策に強い印象を抱いていたのである。

それに対し、西夏戦争で一定の戦果を上げつつあった范仲淹は、陝西より上奏し、かつての自分の提案を取り下げ、改めて、開封外城郭の修築を提案し、呂夷簡と対立する(88)。には建大名府、為北京。徳音降河北諸州軍、繫囚一等杖以下釋之。嚴飭行宫、増置倉厫·營舎。並給官錢、毋得科率。

とあり、はじめは范仲淹の主張になびいていた“議者”たちは、最後には呂夷簡の論理によって、説得されてしまったようだ。ここでの呂夷簡の論点は、契丹に黄河を渡ることを許し政府が京城に籠城してしまっては、國は滅びるというところにある。

慶暦二年(1042)五月、北京大名府の建都となった。六月戊子、修建北京使が任命されるが、その肩書きは、“修建北京使、并相視徳清軍·澶州·大名府城池、及點檢衣甲·器械·錢帛·糧草·軍馬事”であり、河北南部の防衛整備を統括する役目を負っている(89)。また、皇帝巡幸の準備は着々と途中の州県で行われていた(90)。つまり、契丹軍が南進すれば、黄河を渡っての親征が予定されていたのである。以上のように、北京建都は、契丹に対する抑止力のために行われた事業だったのである。その効果かどうかは、よく分からないが、契丹との國境紛争は、歳弊の増額という形で、慶暦二年(1042)九月に決着し、軍事衝突は発生しなかった(91)。翌月すぐに、巡幸の準備は中止されている(92)

したがって、その後、北京の陪都としての整備もほとんど行われなかったようだ(93)。ただし、新法時代に、北京の整備は俄然盛んになる。煕寧八年二月、450万石を貯蔵する倉庫が建造され(94)、12月、諸門に雅名が与えられた(95)。また、北京城内を貫流する御河に、黄河の水を入れるようにして、“江、浙、淮、汴”から北京に漕運船が直接到達できるように河道の改修を行うことになった(96)。同じ頃、開封の外城修築や清汴の役など大規模土木工事が、新法政府によって展開されている。このように、北宋前半の制度を改革するだけでなく、國都や運河などインフラの改修も、新法政策なのである。中興の実を上げることに懸命な神宗政権の政治文化がそこに垣間見られる(この問題については別稿を用意している)。なお、いつ作られたのか不明であるが、城郭の規模は、48里(24km)で、東京や西京に匹敵する規模を与えられている(97)。これもおそらく新法時代のことであろう。

おわりに

本稿では、五代から北宋中期にかけての複都制の展開を紹介してきた。ところで、華北を領域とした五代中原國家において、複都制を採る意味はどのようなものだったのだろうか。五代においては、洛陽、開封、鄴都、太原、長安が、建都されている。長安と太原を除いた3都には、皇帝が滞在する準備がされており、実際に数年間の駐蹕が行われている。特に、皇帝政府の権力が安定しない時期には、複数の國都を行幸して回ることによって、禁軍とその家族を養った。このような行幸は、唐代にそうであったように各地の人々に政府の存在をアピールする意味もあったとも考えられる(98)。つまり、開封·魏州という交通·軍事·財政面での要地を、國都に格付けし、傭兵部隊の就食や藩鎮の反乱に対する抑止力を効かせる意味で、行幸を行っていた。その一方で、古代にさかのぼる伝統都市、洛陽に太廟?円丘をおき天の祭りをする必要があった。実践的な複都制だったのである。華北を領有するにすぎない五代中原國家が、複都制をとった背景には、権力·権威の弱体があった。

しかし、禁軍の整備拡大が確立し、大運河漕運の復活などが図られた後周王朝に至って首都開封が不動のものとなる。洛陽の郊祀機能も開封に集中される。そのころには、皇帝の行幸施設が完備している実質的陪都は必要なくなり、鄴都は降格される。都市的な発展がめざましい開封に対し、形式的な陪都となった洛陽は、山水を愛でる文人官僚たちが退休する空間となっていったのである。あるいは、軍事政権にたいする批判を内に秘めながら、それを芸術作品に昇華させる文人の避難地ともいえる空間となった。士大夫の園林が相望む都市空間には、楊凝式の壁書が各所で観られた。この“放”と称される特異な書はこのような五代の陪都洛陽という空間の“文化力”が生み出し、文化的景観の一翼をになった。北宋において新法との党争に敗れた、文彦博や司馬光たち旧法党のグループが洛陽に集住し、文化的な創造性を発揮した。五代後半より文化都市洛陽の形成が始まっていたのである。

北宋では、五代と同じように陪都が三つ置かれたが、軍事·財政·儀礼などの首都機能の一元化が完成していたため名目的な存在となった。東西両都の段階の、初代太祖から三代目の真宗における、西京行幸が記録されているが(99)、それ以降、皇帝は開封から陪都に出掛けることはなくなる。五代とは様変わりである。したがって、陪都はその存在意味を失い、荒れ果てる状況すら一部にあったのである(100)

参考文献

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【注释】

(1)久保田2010,第一部を参照。

(2)木田,1979。

(3)(《旧五代史》巻二“開平元年戊辰”条,中華書局1976年版,第48頁。)

(4)初,东都经黄巢之乱、遗民众民为三城以相保、继以秦宗权、孙儒残暴、仅存坏垣而巳。全義初至、白骨蔽地、荆棘弥望、居民不满百户、全義麾下才百余人、相与保中州城、四野倶无耕者……(《资治通鉴》巻二百五十七“唐僖宗光啓三年六月壬戌”条,中華書局1956年版,第8358頁)

(5)《洛阳缙绅旧闻记》卷二《齐王张令公外伝》,《丛书集成新编》第86册,台湾新文丰出版社1986年版,第312页、には:“梁祖经营霸业、外则干戈屡动、内则帑庾多虚。斉王悉心尽力、倾竭财资助之。”とある。

(6)《资治通鉴》巻二百六十四“天祐元年正月丁巳”条。

(7)《资治通鉴》巻二百六十四“天祐元年正月己酉”条。

(8)《资治通鉴》巻二百六十四“天祐元年正月戊午”条。

(9)《资治通鉴》巻二百六十四“天祐元年正月壬戌”条,には:“……毀长安宫室百司及民间庐舍、取其材、浮渭沿河而下。长安自此遂丘墟矣。全忠发河南北诸镇丁匠数万、令张全义治东都宫室、江浙湖岭诸镇附全忠者、皆输货资以助之。”とある。

(10)〔金子1995〕72頁参照。

(11)《册府元龟》巻二百〇五,中華書局1960年版3冊2464頁。

(12)上海古籍出版社1978年版,第26頁。

(13)《册府元龟》巻一百九十三,中華書局影印清刊本1960、2330頁。

(14)《册府元龟》巻一百九十三,帝以、魏博·鎮·定、助修西都、宮内工役、方興、礼容未備。其郊天·謁廟宜於秋冬別選良日。

(15)《资治通鉴》巻二百六十八乾化元年(911)六月癸丑(8743頁)、同巻同年十月辛亥(8746頁)以下の各条を参照。

(16)《资治通鉴》巻二百八十一:“范延光聚卒缮兵,悉召巡内刺史集魏州,将作乱。会帝谋徙都大梁,桑维翰曰:‘大梁北控燕、赵,南通江、淮,水陆都会,资用富饶。今延光反形已露,大梁距魏不过十驿,彼若有变,大军寻至,所谓疾雷不及掩耳也。’丙寅,下诏,托以洛阳漕运有阙,东巡汴州。”とあり、後晋においても開封は魏州への出兵がしやすい地点である見られていたことが分かる。

(17)《新唐書》巻三十八,中華書局1975年版,第982頁。

(18)《旧五代史》巻七《梁太祖纪》,第109頁。

(19)《旧五代史》巻九《梁末帝纪》,第133頁には、“帝幸洛阳,为来年有事于南郊也。遂幸伊阙,亲拜宣陵。时租庸使赵岩劝帝郊天,且言:‘帝王受命,须行此礼,愿陛下力行之。’宰臣敬翔奏曰:‘国家自刘鄩失律以来,府藏殚竭,箕敛百姓,供军不暇,郊祀之礼,颁行赏赉,所谓取虚名而受实弊也。况晋人压境,车驾未可轻动。’帝不听,遂行。是月,晋人陷杨刘城,帝闻之惧,遂停郊礼,车驾急归东京。”とある。

(20)《旧五代史》巻二十九《唐庄宗纪》,第403—404頁。

(21)《旧五代史》巻三十《唐庄宗纪》,第414頁。

(22)この時、張全義の洛陽遷都の建策があった。《资治通鉴》巻二百七十二“同光元年十一月癸卯”条,には“张全义请帝迁都洛阳,从之。”とある。また、《旧五代史》巻六十三,第842頁では、洛陽南郊での親祭を要請している

(23)《旧五代史》巻三十二《唐庄宗纪》,第447頁を参照。

(24)《旧五代史》巻四十《唐明宗纪》,第551頁。

(25)荘宗の親祭については、《旧五代史》巻六十三,第841頁。明宗のそれは、《旧五代史》巻四十一,第560頁。

(26)《旧五代史》巻七十七《晋高祖纪》,第1020頁。

(27)《资治通鉴》巻二百八十一“天福二年三月丙寅”条,第9171頁。

(28)《旧五代史》巻七十六“晋高祖本紀天福二年五月丙辰”条,第1000頁。御史中丞張昭遠奏:“汴州在梁室朱氏称制之年,有京都之号,及唐庄宗平定河南,复废为宣武军。至明宗行幸之时,掌事者因缘修葺衙城,遂挂梁室时宫殿门牌额,当时识者或窃非之。一昨车驾省方,暂居梁苑,臣观衙城内斋阁牌额,一如明宗行幸之时,无都号而有殿名,恐非典据。臣窃寻秦、汉已来,寰海之内,銮舆所至,多立宫名。近代隋室于扬州立江都宫,太原立汾阳宫,岐州立仁寿宫。唐朝于太原立晋阳宫,同州立长春宫,岐州立九成宫。宫中殿阁,皆题署牌额,以类皇居。请准故事,于汴州衙城门权挂一宫门牌额,则其余斋阁并可取便为名。”敕:行阙宜以大宁宫为名。

(29)《旧五代史》巻七十七“晋高祖本纪天福三年九月丙寅”,第1018頁。

(30)《旧五代史》巻七十七“天福三年十月庚辰”条,第1020頁。

(31)《旧五代史》巻七十六“晋高祖纪天福二年七月壬申”条、1005頁には、“帝御崇元殿,备礼册四庙,亲授宝册于使摄太尉、守司空、门下侍郎、平章事冯道,使副摄司徒、守工部尚书裴皞,赴洛京行礼。”とある。《旧五代史》巻八十一“晋少帝纪天福三年九月甲辰”条の注,第1072頁。《旧五代史》巻八十三“晋少帝纪开运二年四月丙子”条,第1104頁では、有司摂事により車駕還京を報告している。《旧五代史》巻101“汉隐帝纪乾祐元年十二月壬午”条,第1352頁には、“帝被衮冕御崇元殿,授六庙宝册,正使宰臣苏禹珪,副使大府卿刘皞赴西京行礼。”とある。《五代会要》巻1《杂录》,第14頁には、“晋天福七年八月,中门书下奏,山陵礼仪使状‘高祖尊谥号及庙号,伏准故事,将启殡宫前,择日命太尉率百僚奉谥册,告天于圜丘毕,奉谥册跪读于灵前。’此累朝之制,盖以天命尊极,不可稽留。今所上高祖圣文章武明德孝皇帝尊谥宝册,伏缘去洛京地远,宝册难以往来,当司详酌,伏请只差官往洛京,奏告南郊太庙。”とある。

(32)《旧五代史》巻七十七“晋高祖纪天福三年十一月辛亥”条,第1021頁。

(33)《旧五代史》巻八十“晋高祖纪天福六年七月甲申”条,第1052頁。

(34)〔久保田2007〕36頁を参照。

(35)南北朝時代、北斉などの首都になっている。《旧五代史》巻69,第915頁には“魏博六州户口、天下之半。”とある。
  《旧五代史》巻七十五《晋高祖纪》,第981頁には“……时邺都繁富为天下之冠,而土俗犷悍,民多争讼,帝令投函府门,一一览之,及逾年,盈积几案,滞于狱者甚众,时论以此减之。”とある。
  〔桑原1924〕注60には、“(金代)大名府は北方第一の大都会であった。開封府よりも真定府よりも、将た大興府(北京)よりも戸口繁盛であった。”とある。金の大名(魏州)の戸数30万、南宋の蘇州は40万であり、拮抗していた。

(36)《旧五代史》巻八十《晋高祖纪》“天福七年六月乙丑”条,第1062頁。

(37)《旧五代史》巻八十一《少帝纪》“天福八年春正月辛巳”条,第1074頁には“河南府上言‘逃户凡五千三百八十七,饿死者兼之。’诏‘诸道以廪粟赈饥民,民有积粟者,均分借便,以济贫民。’时州郡蝗旱,百姓流亡,饿死者千万计。东都人士僧道,请车驾复幸东京。”とある。同庚戌2月庚戌、1075頁には“御札取今月十一日车驾还东京,沿路州府,不用修饰行宫;食宿顿递,并以官物供给;文武臣僚除有公事合随驾外,并先次进发。”とある。

(38)《旧五代史》巻一百一十三《周太祖纪》,第1499頁。

(39)《旧五代史》巻一百一十三《周太祖纪》,第1501頁。

(40)汴水自唐末潰決、自埇橋東南悉為汚沢。上謀撃唐、先命武寧軍節度使武行徳発民夫、因故堤疏導之。

(41)《玉壶清话》巻三,中華書局1984年版,第26頁には、。

(42)《渑水燕谈录》巻九,中華書局2006年版,第110頁には、“周显德中,许京城民居起楼阁、大将军周景威,先于宋门内监汴水建楼十三间,世宗嘉之,以手诏奖谕。”とある。

(43)《东京梦华录》巻二,台湾世界書局1972年版,第53頁。

(44)《五代会要》巻二十六《城郭》:“显德二年四月,诏曰……而都城因旧,制度未恢,诸卫军营,或多窄狭,百司公署,无处兴修。……宜令所司于京城四面別筑罗城,先立标识。……其标识内,候官中劈画,定军营、街巷、仓场、诸司公廨院……即任百姓营造。”上海古籍書店1978年版,第417頁。

(45)《旧五代史》巻一百一十一《周太祖纪》,第1473頁には“帝被衮冕,御崇元殿,授太庙四室宝册于中书令冯道等,赴西京行礼。”とある。

(46)〔木田1979〕〔小島1989〕を参照。

(47)には、《资治通鉴》巻二百九十一“广顺三年九月癸亥”条,中華書局1956年版,第9496頁。

(48)《旧五代史》巻142《礼志》,第1904頁には、“将有事于南郊,议于东京别建太庙。时太常礼院言:‘准洛京庙室一十五间,分为四室,东西各有夹室,四神门,每方屋一间,各三门,戟二十四,别有斋宫神厨屋宇。准礼,左宗庙,右社稷,在国城内,请下所司修奉。’从之。”とある。

(49)《旧五代史》巻八十一,第1070頁には“以山陵礼仪使、太常卿崔棁为太子宾客,分司西都,病故也”。とあるなど、《旧五代史》を検索すると、洛陽への分司例が、13でてくるが、それらはすべて、後晋時代以降のものである。

(50)《小畜集》(四部丛刊初编)巻二十八:“晋祖从容谓贵主曰:‘朕于主家无所爱惜,但朝廷多事,府库甚虚,主所知矣。今辇毂之下,桂玉为忧,可命渥分司西京,以丰就养。’因厚遣。”とある。

(51)たとえば、《旧五代史》巻一百二十三、巻一百二十四。

(52)馮道は、洛陽の後唐の明宗天成4年、宰相になった翌年より、前宰相の住居に住み着き、十年後に正式に私有が認められた。一種の賜第といえよう。〔礪波1988〕180頁。

(53)〔梅原1990〕を参照。

(54)《旧五代史》巻一百三十一《刘皞传》。

(55)《旧五代史》巻一百三十一王延傳、1725頁には“王延……历工、礼、刑三尚书。周初,以疾求分司西洛,授太子少保。既而连月请告,为留台所纠,改少傅致仕。”とある。また、《旧五代史》巻127,第1668頁には“时朝官分司在洛,虽有留台御史,纪纲亦多不整肃,遂敕文纪别令检辖。侍御史赵砺及纠分司朝臣中有行香拜表疏怠者,杨邠怒,凡疾病不在朝谒者,皆与致仕官。时文纪别令检辖之职,颇甚滋章,因疾请假,复为留台所奏,遂以本官致仕。”とある。

(56)北宋初期より中期までの洛陽への士大夫の移住については、〔木田1979〕64頁以下に詳しい。また〔周2001〕は、五代から北宋にかけての洛陽の諸問題について詳細に論じており、特に園林の問題に多くの頁を割いており、大変参考になる。

(57)《续资治通鉴长编》(以下《长编》と略称)巻169“皇祐二年闰十一月戊午”条,中華書局1992年版,第4066頁には、。

(58)《宋名臣言行录》,前集卷七。

(59)《洛阳名园记》(《丛书集成新编》,新文豊出版1986、48冊)末尾の、“论”を参照。また、〔田村1949〕を参照。

(60)卷十,中華書局1981年版,第89頁には、。

(61)《旧五代史》巻一百二十八《杨凝式传》,第1683頁。

(62)〔中田1982〕。

(63)《旧五代史》巻一百二十八《杨凝式传》,1684頁。

(64)楊凝式の壁書については〔石田1981:143頁〕に詳しい。

(65)《叢書集成新編》新文豊出版1986、86冊、310頁

(66)〔石田1981〕,第147頁

(67)《全宋笔记第一编》,大象出版社2003年版,第91頁。

(68)〔石田1981〕,第145頁。

(69)《歩里客談》巻下(《全宋笔记》第4編4冊10頁)には、“《五代史》于杨凝式不立传,载其历梁、唐、晋、汉、周,以疾致仕。又不明其本心,凝式谏父涉言:大人为唐宰相,而以传国玺与人,则其心可见。又不仕五代,而托心疾,其人贤,其节高,可知矣。”とある。

(70)《游宦纪闻》巻十,中華書局1981年版,第89頁。

(71)《宋史》巻四,第70頁。

(72)《游宦纪闻》卷十,第90頁には、“本朝兴国中三川大寺刹率多颓圯,翰墨所存无几,今有数壁存焉。”とあるが、この洪水による被害であろう。

(73)《宋史》卷十六,第312頁,には“伊洛溢”とある。この年は、甲子である。

(74)《侯鲭录》卷七(《宋元笔记小说大观》第2冊,上海古籍出版社2001年版,第2089頁)には、“天福中,杨凝式风子笔墨高妙,洛阳寺有题壁。李建中亦有书名,尝题其旁云:杉松倒涧雪霜干,屋壁麝煤风雨寒。我亦平生有书癖,一回入寺一回看。”趙令畤は、紹聖三年(1061)に生まれ、南渡して、紹興4年(1134)に没している。

(75)《游宦纪闻》卷十,第86頁。

(76)〔石田1981〕144頁を参照。

(77)《游宦纪闻》卷十,第87頁。

(78)《河南志》,中華書局1994年版,第21頁。

(79)《东观余论》巻上,《丛书集成新编》,台湾新文豊出版1986年版,第9頁。

(80)〔木田1979〕70頁を参照。

(81)〔木田1979〕。

(82)この問題については、〔久保田2007〕44頁以降を参照。

(83)〔小島1999〕,第29頁。

(84)《九朝编年备要》巻十三,中華書局2006年版,第292頁には、南京留台が置かれた記事がある。また、張方平は、神宗に、南京留台の地位を求めている。新法政治から逃避するためである。

(85)《石林燕语》巻二,中華書局1984年版,第16頁には“应天府艺祖肇基之地,祥符七年,始建为南京,诏即衙城为大内,正殿以归德为名。当时虽降图营建,而实未尝行。天禧中,王沂公为守,始请减省旧制,别为图以进,亦但报闻。其后夏文庄、韩忠宪、张文定相继为守,有请仅能修祥辉、崇礼二门而已。元丰间,苏子容自南京被召还朝,复以为言,但请以沂公奏先修归德一殿,约为屋百间,神宗亦未暇也。至今惟正门以真宗东封回,尝驻跸、赐赦、观,赐名重熙颁庆楼。犹是双门,未尝改作,内中唯有御制诗碑亭二,余为守时已将倾颓,其中榛莽,殆不可入也。”とある。

(86)〔木田1979〕57頁を参照。

(87)《长编》巻一百一十八,第2783頁。

(88)《長编》巻一百三十六,第3260頁。

(89)《长编》巻一百三十七,第3278頁。

(90)《长编》巻一百三十七,第3288頁には、“出内藏库緍钱十万,修北京行宫。时任中师奏,行宫大抵摧圮。请更新之。上令创修寝殿及角楼。余皆完补,而已其自京至徳清请、行宫倌驿,廨署。亦量加葺治。”とあり、巡幸の準備が始められている。

(91)〔陶2008〕を参照。

(92)九月に宋と契丹の交渉が妥結すると、翌月の《长编》巻一百三十七,第3299頁に、“诏自陈桥至北京,凡有司供顿调度悉罢。”とあるように、巡幸の準備は中止されている。

(93)《长编》巻一百三十七,第3299頁に“先是营建北京内侍皇甫继明明,主营宫室,欲侈大其制,以要赏。知大名府程琳,以为方事边,又欲事土木,以困民不可。既而继明数有论奏。上遣侍御史鱼周询按视,罢明归阙。命琳,独主其事”とある。

(94)《长编》巻二百六十,第343頁には、“詔。澶州、北京,置仓、贮粮。澶州三百五十万石,北京四百五十万石。期二年修毕。赐度僧牒五百,给其费。”とある。

(95)《宋会要辑稿》,中華書局影印本1957)方域2-2、神宗煕寧八年十二月九日の条。

(96)《长编》巻二百七十八,第810頁の“判大名府文彦博言”を参照。

(97)《宋史》巻八十五,第105頁には“庆历二年,建大名府为北京。宫城周三里一百九十八步,即真宗驻跸行宫。城南三门:中曰顺豫,东曰省风,西曰展义。东一门,曰东安。西一门,曰西安。顺豫门内东西各一门,曰左、右保成。次北班瑞殿,殿前东西门二:东曰凝祥,西曰丽泽。殿东南时巡殿门,次北时巡殿,次靖方殿,次庆宁殿。时巡殿前东西门二:东曰景清,西曰景和。京城周四十八里二百六步,门一十七。熙宁九年,改正南南河门曰景风,南砖曰亨嘉,鼓角曰阜昌。正北北河门曰安平,北砖曰耀德。正东冠氏门曰华景,冠氏第二重曰春祺,子城东曰泰通。正西魏县门曰宝成,魏县第二重曰利和,子城西曰宣泽。东南朝城门曰安流,朝城第二重曰巽齐。西南观音门曰安正,观音第二重曰静方。上水关曰善利,下水关曰永济。内城创置北门曰靖武。”とある。

(98)唐代の行幸の持つ意味については、〔Wechsler1985:169〕〔妹尾1990〕を参照。

(99)〔久保田2007〕所収、付章1“北宋の皇帝行幸について”を参照。

(100)《温国文正司馬公文集》(四部叢刊初編)巻47、乞罷將官狀には、“西京城郭周數十里、卑薄頽缺、犬豕可踰。”とある。
  《宋史》巻356、宋喬年伝子昪,11208頁“方是时,徽宗议谒诸陵,有司预为西幸之备。(宋)昪治宫城、广袤十六里、创廊屋四百四十间、费不可胜。会髹漆、至灰人骨为胎、斤直钱数千。尽发洛城外二十里古冢、凡衣冠垄兆、大抵遭暴掘。”北宋末、徽宗時代に洛陽宮殿の再建が行われた。従ってそれまでは、荒廃していたのである。

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