理论教育 楚地秦官:郡県官吏以外的身份

楚地秦官:郡県官吏以外的身份

时间:2023-06-03 理论教育 版权反馈
【摘要】:本稿の結論は,楚地の秦官は郡県官吏だけではなかったという単純にして基礎的な事実をあらためて確認した,ということになろう。乞鞫,廷覆之。[12]「覆獄」は一般に再審を意味するとみなされているが,楊振紅·王安宇は「覆」は必ずしも再審のみならず初審においても使用される例があることを指摘し,「覆」とはより上級の機関もしくはそれが指定する機構や使者によって担当される訴訟審判のことであると論じている。

楚地秦官:郡県官吏以外的身份

本稿では,秦が旧楚地を含めた地方郡県を支配するにあたって廷尉·御史·丞相·執法などの属吏を現地に派遣し,郡県行政を監視·監督していたこと,また御史·執法が郡県管区をまたいで資源不均衡を調整する役割を担っていたことを確認した。これらの官は,時に地方官吏を監視し,時に地方支配の不備を補完する,いわば第二の支配経路としての機能を有していた。本稿の結論は,楚地の秦官は郡県官吏だけではなかったという単純にして基礎的な事実をあらためて確認した,ということになろう。

確かに秦の地方支配を日常的に担ったのは第一に郡県官吏であった。しかし郡県はそもそも一定範囲の管区に分割されている以上,それぞれの権限はその領域内にしか及ばないという問題が必然的に伴う。そのため,郡県管区を越えた広領域的な問題が生じた際,主として対処にあたったのは皇帝意志の代弁者たる御史·執法であった。

広領域的な問題を郡県単独で解決させようとはせず,皇帝の代理人がそこに現れるような制度設計の存在から,秦が「皇帝による郡県支配」を志向していたことが強く示唆される。このことは当然ながら楚地支配の問題にとどまるものではなく,秦代地方支配制度の根本的な特質に関わる論点かと思われる。さらなる検証を期したい。

(作者单位:日本岡山大学学院社会文化科学研究科)

【注释】

[1]本研究はJSPS科研費18K00997の支援を受けたものである。

[2]以下,睡虎地秦簡の引用は睡虎地秦墓竹簡整理小組『睡虎地秦墓竹簡』文物出版社,1990年による。

[3]土口史記『先秦時代の領域支配』(京都大学学術出版会,2011年,95-121頁)を参照。

[4]工藤元男は「語書」の性質について,「この文書の基調をなすものは郷俗と秦法の対立状况であり,「郷俗·淫泆の民」が秦法の浸透を阻む楚地固有の習俗全般およびそれを保守して秦法にしたがわない故楚の人々をさすことは明らかである」と述べる。工藤元男『睡虎地秦簡よりみた秦代の国家と社会』創文社,1998年,380-385頁。

[5]土口史記「秦代領域控制與官吏移動」[『出土文献世界:第六届出土文献青年学者論壇論文集』中西书局、2018年]。

[6]嶽麓書院蔵秦簡「質日」の釈文は,朱漢民、陳松長主編『嶽麓書院蔵秦簡(壹)』上海辞書出版社,2010年に よる。

[7]朱漢民、陳松長主編『嶽麓書院蔵秦簡(壹)』,69頁。

[8]『漢書』百官公卿表:廷尉,秦官,掌刑辟,有正、左右監,秩皆千石。

[9]以下,張家山漢簡「奏讞書」および「二年律令」の引用は,彭浩、陳偉、工藤元男主編『二年律令与奏讞書:張家山二四七号漢墓出土法律文献釈読』(上海古籍出版社,2007年)による。

[10]籾山明『中国古代訴訟制度の研究』京都大学学術出版会,2006年,106頁。

[11]嶽麓書院蔵秦簡「爲獄等状四種」案例11には「廷」「廷史」が見えるが,廷尉は現れない(朱漢民、陳松長主編『嶽麓書院蔵秦簡(叁)』上海辞書出版社,2013年)。 乞鞫,廷覆之。

[12]「覆獄」は一般に再審を意味するとみなされているが,楊振紅·王安宇は「覆」は必ずしも再審のみならず初 審においても使用される例があることを指摘し,「覆」とはより上級の機関もしくはそれが指定する機構や使者によって担当される訴訟審判のことであると論じている。楊振紅·王安宇「秦漢訴訟制度中的“覆”及相関問題」『史学月刊』2017年第12期,5-13頁。

[13]陳松長主編『嶽麓書院蔵秦簡(伍)』上海辞書出版社,2017年。

[14]以下,里耶秦簡の引用は特に注記しない限り,湖南省文物考古研究所編『里耶秦簡〔壹〕』(文物出版社,2012年);陳偉主編『里耶秦簡牘校釈(第一卷)』武漢,武漢大学出版社,2012年による。

[15]陳偉主編『里耶秦簡牘校釈(第一卷)』,82頁。

[16]陳偉主編『里耶秦簡牘校釈(第一卷)』,174頁は「廿五」の可能性を指摘する。(www.daowen.com)

[17]詔書の実例としては,里耶秦簡8-159に「制書曰:擧事可爲恒程者上丞相…丗二年二月丁未朔亥御史丞去疾…」がある。「制書」をまず掲げて次に紀年を示す書式は,一般の文書が冒頭に紀年を掲げるのとは明らかに异なる。8-528+8-532+8-674もこれと同様であろう。さらにこれを踏まえれば,8-528+8-532+8-674の冒頭部分「御史:聞…」は「制詔御史:聞…」であったと推測される。同様の文例は秦令に散見する:「●制詔御史:聞獄多留或至數歳不決…」(岳麓書院蔵秦簡(伍)59簡),「制詔御史:聞反者子年未盈十四歳…」(岳麓書院蔵秦簡(伍)93簡)。

[18]この簡の綴合については,何有祖「里耶秦簡牘綴合(四)」(簡帛網2012年5月21日http://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=1700)を参照。

[19]『漢書·地理志』によれば充県は武陵郡に属する。

[20]同類の封検の解釈については土口史記「秦代領域控制與官吏移動」[『出土文献的世界:第六届出土文献青年学者論壇論文集』中西书局,2018年,79-91頁]を参照。

[21]陳偉主編『秦簡牘合集〔壹〕』武昌,武漢大学出版社,2014年,141頁。

[22]二年律令·傳食律232-233簡にも類例が見られる。

[23]鄭曙斌、張春龍、宋少華、黄樸華編『湖南出土簡牘選編』嶽麓書社,2013年。

[24]16-886簡では丞相假史が何のために派遣されたのか明示されていないが,それが覆獄のためであろうことは前 掲の8-632+8-631簡より推測される。

[25]ここに見える「丞相史如」について,整理者は「丞相、史如」と断句する(朱漢民、陳松長主編『岳麓書院蔵秦簡(叁)』,176頁)。しかしこのように解した場合,丞·史の所属する県名が示されないのは他の文例(例えば「爲獄等状四種」案例1,13簡「州陵守綰、丞越、史獲」)と异なり,いかにも不自然である。したがってここでは「丞相史の如(人名)」と解しておく。

[26]陳松長主編『嶽麓書院蔵秦簡(伍)』,155頁,注72。

[27]『漢書』百官公卿表·監御史:丞相遣史分刺州,不常置。;『漢舊儀』:漢初置相國史,秩五百石。後罷,并爲丞相史。武帝元狩六年,丞相吏員三百八十二人。史二十人,秩四百石。少史八十人,秩三百石。屬百人,秩二百石。屬史百六十二人,秩百石。なお丞相属吏については安作璋、熊鉄基『秦漢官制史稿』(斉魯書社,2007年,34-41頁)を参照。

[28]『漢書』魏相伝:(魏)相敕掾史案事郡國及休告從家還至府,輒白四方异聞,或有逆賊風雨灾變,郡不上,相輒奏言之。時丙吉爲御史大夫,同心輔政,上皆重之。

[29]執法の詳細については土口史記「嶽麓秦簡「執法」考」(『東方学報』京都,第92册,2017年)を参照。

[30]陳偉「洞庭、蒼梧二郡芻論」『歴史研究』2003年第5期,170頁。

[31]本册書の復元については,宫宅潔「關於里耶秦簡⑧755-759簡與⑧1564簡的編聯」(簡帛網2018年3月4日ht-tp://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=2992)を参照。なお釈文は一部通行の文字に改めた。

[32]治虜御史について,陳偉主編『里耶秦簡牘校釈』は「治虜御史,蓋爲管理奴僕的官署」とする。おそらくは御 史のなかでも特に「治虜」の任務に従事した者を特にこう称したと考えられるが,それが恒常的な官かこのとき特別に設けられた官であるのか判然としない。

[33]土口史記「嶽麓秦簡「執法」考」22-23頁。嶽麓秦簡(肆)308-311簡の句読および解釈についてもこれを参照。

[34]渡邊信一郎『中国古代の財政と国家』汲古書院,2010年,55-66頁。

[35]桜井芳朗「御史制度の形成(上)」『東洋学報』第23卷第2号,1936年;増淵龍夫『新版 中国古代の社会と 国家』岩波書店,1996年,266-295頁。

[36]土口史記「嶽麓秦簡「執法」考」,23頁。

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