前節では地方に派遣された秦官について検討したが,そのうち御史·執法については,制度的に郡県行政に対して介入しえたという点がさらに注目される。両者はいずれも郡県の上位に立って,既存の郡県管区にとらわれない各種の調整を行う権限を有していた。ここでは秦代における御史·執法の郡県行政に対する介入·調整の具体例について検討したい。
(1)郡県管区の調整
まずは張家山漢簡「奏讞書」にみえる秦代の事例を取り上げよう。始皇帝時期の事件について記した案例18(130-131簡)に,
視獄留,以問獄史氏,氏曰:蒼梧縣反者,御史恒令南郡復。
とある。蒼梧郡所属の県において反乱を起こした者に対して,御史は常に南郡に命じて覆獄を行わせていたという。これについて陳偉氏は
“蒼梧縣反者,御史恒令南郡復。”这句话实际上表明,南郡复审苍梧郡反者,是奉御史之命行事,属于一种特别情形,而不是在按常规履行郡府的职责。这可能是位于首都的御史授权南郡对与之相近的苍梧代行自己的职权
と述べる[30]。御史の指令を前提としつつ,南郡は自郡の管区を越えて蒼梧郡下の県の問題に対処していたのである。言い換えれば,御史は既存の郡県の管轄範囲を臨時に変更しえたということになる。
そうした処置がとられた背景について,ここには明記されてはいない。ただ,蒼梧郡下の県における反乱の頻発,治安の動揺という状况が県の業務を繁雑化させ,当該県のみで対処するには人的資源が十分ではなかったというような状况が推察される。そのため南郡など他郡から臨時に蒼梧郡へと官員が充当される必要があったのではなかろうか。
このような対応を御史が行いえたことの制度的な背景として,前掲の嶽麓秦簡(伍)128-130簡「令曰:御史節發縣官吏及丞相、御史、執法發卒史以下到縣官佐、史,皆毋敢名發。其發治獄者官必遣嘗治獄二歳以上」が想起される。すなわち,丞相·御史·執法はもともと郡県に所属する官吏をその郡県の枠組みを越えて臨時の業務に就かせることができたのである。先の奏讞書に見えた南郡·蒼梧郡の関係も,こうした制度を背景として,御史が南郡の官員を蒼梧郡下の県に派遣したものであったと考えられる。
御史のような中央官が郡県で生じた問題に対処すべく,既存の郡県管区を臨時に無効化し変更しえたという事実は非常に興味深い。郡県という縦割りの枠組みから生じる問題を克服すべく,御史には強大な権限が与えられていたと言えるだろう。
(2)郡県間の不均衡の調整
御史と執法はさらに,郡県において必要な資源の不均衡が生じた場合に,これを調整する機能を有していた。以下,御史·執法それぞれの事例に関する具体的な史料を検討しよう。
次の里耶秦簡は洞庭郡守から遷陵県丞に下された一連の册書である[31]。
丗四年六月甲午朔乙卯,洞庭守禮謂遷陵丞:
丞言徒隸不田,奏曰:司空厭等當坐,皆有它罪,8-755
耐爲司寇,有書。書壬手。令曰:吏僕、養、走、工、組
織、守府、門、肖力匠及它急事不可令田,六人予田徒8-756
四人。徒少及毋徒,簿移治虜御史,御史以均予。今遷陵
廿五年爲縣,廿九年田,廿六年盡廿八年當田。司空厭等8-757
失弗令田,弗令田即有徒而弗令田且徒少不傅于(www.daowen.com)
奏。及蒼梧爲郡九歳,乃往歳田。厭失,當坐論,即8-758
應令及書所問且弗應。弗應而云當坐之狀何如。
其謹案致,更上奏決。展簿留日。毋騰却。它8-1564
如前書律令。/七月甲子朔癸酉,洞庭假守
繹追遷陵。/歇手。●以沅陽印行事。8-759
歇手8-755(背)
七月甲子朔庚寅,洞庭守繹追遷陵。亟言。/歇
手。●以沅陽印行事。/八月癸巳朔癸卯,洞庭假8-1523正
守繹追遷陵。亟日夜上勿留。/卯手。●以沅陽
印行事。/九月乙丑旦,郵人曼以來。/翥發。8-1523背
第三行目以下の「令」に,県間の労働力を調整する規定が見られる点が注目される。すなわち,県において田徒が不足したりいなかったりした場合,治虜御史[32]に帳簿を送付して田徒の分配を申請し,治虜御史の側ではこれに応じて田徒を分配(「均予」)したという。田徒に余裕のある別の県から再分配したものであろう。このように,御史には県の田徒不足を調整し,県間の人的資源の均衡を図る役割が与えられていた。
ここでの「均予」とは田徒の調整を指すが,一方で金銭の調整に関する処置も秦簡には見られる。執法による「調均」がそれである。これについては嶽麓秦簡(肆)308-311簡に見え,別稿[33]でも検討を加えたことではあるが,ここでもあらためてその内容を確認しておきたい。
●制詔丞相、御史:兵事畢矣┘,諸當得購賞貰責(債)者,令縣皆亟予之。令到縣,縣各盡以見(現)錢不禁者,勿令巨辠。令縣皆亟予之。■丞相、御史請:令到縣,縣各盡以見(現)錢不禁者亟予之,不足,各請其屬所執法,執法調均,不足,乃請御史,請以禁錢貸之,以所貸多少爲償,久昜(易)期,有錢弗予,過一金,貲二甲。
県に対して「購償貰債」の支払いをすみやかに行うよう命じた制詔に,丞相·御史の請が続き,これを皇帝が承認(制曰可)して全体としては秦の「令」となったものである。丞相·御史の請の中に,県の現銭が足りない場合は執法に請求し,執法が「調均」をする旨が記されている。調均とは,現銭に余裕のある県から不足している県に対して融通することを意味する[34]。それでもさらに不足がある場合には御史に対して禁銭からの支出を請求することになっていた。
このように,執法は場合によっては御史の協力をも仰ぎつつ,県間の財政的な不均衡を調整すべき立場にあった。こうした執法の「調均」もまた,御史の「均予」と同様,一県の管区をまたぐような調整を行うものであったと言える。
御史の「均予」と執法の「調均」は,いずれも一県では解決しがたく,複数の県間の調整が必要な問題に対応した処置であったという点で共通している。一県の限定された管区内では解決不可能な問題が生じた場合,その県は自ら周囲の県と交渉し必要な資源を融通·調整してもらうのではなく,協力を仰ぐ対象はまず御史·執法であったという点にはあらためて注意しておきたい。別の見方をすれば,県が協力を仰ぐ対象は郡ではなかったということになる。郡もまたその権限の及ぶ管区が限定された一地方行政単位にすぎず,その管区を越えた資源の調整·再分配を行うには理想的な存在とは言い難い。一方,御史·執法はそもそも郡や県のような地方行政単位とは异なり,あらかじめ定められた管区は有していない。そのことでかえって郡県を横断した調整が可能となったのである。
さて,いま一度これら御史·執法の郡県横断的な調整機能を示す史料に立ち戻れば,そうした広域行政の権限が当時の「令」という法的根拠に基づいていたということもまた共通点として注目される。既に指摘されているように,御史とは皇帝の「史」であり,皇帝の意志を代弁する使者という性格を濃厚に有していた[35]。また別稿で論じたように,執法とは皇帝の意志を迅速に実行する役割を帯びた官であった[36]。そのような両者の性格が,皇帝の「令」に基づき「均予」「調均」を実施するという点に現れていたのである。要するに,御史·執法による臨時的な郡県管区の調整や,郡県を横断した資源不均衡の調整といった権限の来源は,両者が皇帝の直接の代理人としての性格を有した点にあったと考えられる。
本節の議論をまとめておこう。(1)秦による旧楚地の統治においては,郡県という既存の地方行政機関のみでは対処が困難な問題が存在した,(2)そうした問題が生じた場合,御史·執法が郡県管区を臨時に変更したり,「均予」「調均」によって調整を行うなどの対策が講じられていた,(3)そうした処置は皇帝の「令」に基づいて行われており,このことは御史·執法が皇帝の代理人であったことを反映する。
以上のように捉えれば,郡県による地方統治機能の限界を,皇帝の代理人が補完したという構図が見えてくるだろう。
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