近年公開された出土簡牘によれば,秦が各種の官吏を旧楚地に派遣していたことが窺われる。具体的には丞相·御史·執法·廷尉の属吏が挙げられるが,ここでは行論の便のため,現存資料の豊富な順に検討してゆきたい。
(1)廷史
まず廷尉の属吏として,廷史なる官が旧楚地の県に派遣されて治獄等に携わっていたことが確認される。このことについては別稿[5]で論じたところだが,重複を厭わず以下に紹介し,さらに若干の新出資料を付け加えておきたい。
嶽麓秦簡「質日」[6]にはしばしば「廷史」が現れる。「三十四年質日」および「三十五年私質日」に,
(始皇三十四年五月)戊辰,騰与廷史治傳舍 33簡第4欄
(始皇三十四年五月)癸巳,廷史行行南 58簡第4欄
(始皇三十四年六月)壬寅,廷史行北 8簡第5欄
(始皇三十五年十二月)辛未,爽行廷史 9簡第2欄
整理者が述べるように,廷史とは「廷尉史」のことであろう[7]。『漢書』百官公卿表では廷尉の属吏は廷尉正·廷尉左右監とされており,そこには「廷史」は見えないが[8],『漢書』刑法志に「今遣廷史與郡鞫獄」とあり,これについて如淳は「廷史,廷尉史也」と解している。後掲の奏讞書においても廷史は廷尉による審判に参与していることから,それが廷尉の属吏にあたることは明らかであろう。
廷史が携わった治獄の実例は,張家山漢簡「奏讞書」[9]に見ることができる。秦代の事件と考えられる「奏讞書」案例21(183-185簡)では,杜県からの上讞に対し,廷尉·廷尉正·廷尉監·廷史が審理を行っている。
今杜女子甲夫公士丁疾死,喪棺在堂上,未葬,與丁母素夜喪,環棺而哭。甲與男子丙偕之棺後内中和奸。明旦,素告甲吏,吏捕得甲,疑甲罪。廷尉,正始,監弘,廷史武等卅人議當之。
さらに同史料は続けて,もう一人の廷史が徭使(出張)のため遅れて裁判に参加し,上司の廷尉らの意見に反駁したことを記している(189簡「今廷史申徭使而後來,非廷尉當,議曰:當非是」)。このことも,廷史が地方に派遣されていたことを端的に示すだろう。
廷尉が県からの上讞を受けて再審理を行うことについては,『漢書』刑法志所載の高祖七年制詔が参照できる。
自今以來,縣道官獄疑者,各讞所屬二千石官,二千石官以其罪名當報之。所不能決者,皆移廷尉,廷尉亦當報之。
県道→二千石官→廷尉という順序による上讞の制度が示されている。さらに籾山明は乞鞫による再審理の制度について記した二年律令116簡,
气(乞)鞫者各辭在所縣道,縣道官令、長、丞謹聴,書其气(乞)鞫,上獄屬所二千石官,二千石官令都吏覆之。都吏所覆治,廷
について,末尾「廷」の次には「尉……」という簡が続くとして,二千石官に派遣された都吏が覆治した内容は,廷尉に報告されたはずであると指摘する[10]。
このように,県道→二千石官→廷尉という順序で再審が行われるのが当時の制度であった。これを背景に,県の裁判に対して廷尉が再審理を行うことがあったわけだが[11],前掲の嶽麓秦簡「質日」で見たように,地方に来て業務を行っているのは廷史であった。これは廷尉が県に対する再審を行う場合,現地に赴いて調査等の実務を行うのが専ら廷史の任務であったことを示唆する。
以上の廷史に関わる議論は別稿で既に述べたことであるが,さらに付け加えるならば,嶽麓書院蔵秦簡(伍)261-262簡には廷史が覆獄[12]のため移動する際の制度規定が見られる[13]。
●令曰:叚(假)廷史、廷史、卒史覆獄乘倳(使)馬└,及乘馬有物故不備,若益驂駟者└。議,令得與書史、僕、走乘,毋得驂乘└。它執法官得乘倳(使)馬覆獄、行縣官及它縣官事者比。●内史旁金布令第乙九
(始皇)元年四月得之乞鞫曰……廷史賜等覆之。
整理者はこれを県廷の史もしくは廷尉史かと両論併記している。だが上述のように県に対して廷尉系統の吏が覆獄することが当時よくあったとすれば,ここの廷史もまた廷尉史のことと考えるのが妥当であろう。
廷史や卒史のほか,執法(後述)の属吏等は,覆獄で地方に赴く必要から官有馬を使用することがあった。地方郡県に派遣されるこれらの官吏に対しては通行上の便宜が図られていたことがわかる。
廷史のほか,廷尉の屬官としては廷尉正·監が存在するが,これらも地方での治獄·覆獄に参与した可能性がある。里耶秦簡8-141+8-668簡[14]に,
丗年十一月庚申朔丙子,發弩守涓敢言之:廷下御史書曰:縣
治獄及覆獄者,或一人獨訊囚,嗇夫長、丞、正、監非能與
殹,不參不便。書到尉言。●今已到,敢言之。(正)
十一月丙子旦食,守府定以來。/連手。 萃手。(背)
とあり,「正、監」が見える。陳偉主編『里耶秦簡牘校釈』は「《二年律令》444號簡有“丞相長史正、監”,可參看」としているが[15],ここでは治獄·覆獄にかかわるため,廷尉正·監のことを指している可能性も排除すべきではないだろう。
(2)御史
次に地方へと派遣された秦官として御史を取り上げよう。里耶秦簡に詔書と思しい次のような簡8-528+8-532+8-674がある。
御史:聞代人多坐從以繫,其御史往行,其名所坐以繫
縣奏軍初到使者至,其當于秦下令繫者,率署其所坐(www.daowen.com)
令且解盗戒(械)。丗五年[16]七月戊戌,御史大夫綰下將軍下叚(假)御史謷往行
下書都吏治從入者,大見下校尉主軍都吏治從
書從事各二牒,故何邦人爵死越從及有以當制【秦】(正)
書亟言,求代盗書都吏治從入者所,毋當令者
留曰騎行書留。/手。(背)
これが詔書であると考えられるのは,冒頭に年次を記していない点などが詔書の体例に符合するためである[17]。とすれば,「其御史往行」と命じているのは始皇帝であろう。ここで御史が命じられた内容は,代の地に出向いて「繫」された者について調査し,さらに「解盗械」することであった。御史大夫王綰はこれに応じ,現地に假御史を派遣している。
この文書は代人の繫に関する問題に対処するために御史を派遣したことについて記載するが,里耶秦簡は秦代遷陵県廷(洞庭郡所属)において出土した文書であるため,代の問題とこの洞庭郡遷陵県とがどのように関わるのかについては今ひとつ判然としない。しかしこれが遷陵県に届いた文書である以上,この文書に記された案件が代のみならず楚をも含めた旧六国所属の人々に関連する処置であった可能性がある。「故何邦人」という記載はこの見方を補強するだろう。いずれにしても,皇帝の命令を受けて御史が楚地を含む地方に派遣され,罪人の調査を実施することがあった点は確実と言える。
上記の文書では御史は「行」すなわち巡察することを命じられていた。一方,その他に地方に派遣された御史が担った業務の実例として,里耶秦簡中の封検8-632+8-631簡[18]が注目される。
御史覆獄治充
故令人行
御史が覆獄のため充県[19]に(おそらく一時的に)治所を設けていたことが判明する。この封検はその御史の治所に宛てられたものと考えられる[20]。
このように御史は巡察や覆獄のために地方に派遣されることがあったが,このことと対応して,移動する御史等に対する食糧支給について規定した秦律が睡虎地秦簡·秦律十八種179-180簡に見える。
御史、卒人使者,食粺米半斗,醤駟(四)分升一,釆(菜)羹,給之韭葱。其有爵者,自官士大夫以上,爵食之。使者之從者,食(糲)米半斗,僕,少半斗。 傳食律。
冒頭の「御史、卒人使者」を,『秦簡牘合集』は御史(御史大夫)の使者と卒人(二千石官)の使者を意味すると解している[21]。従うべきであろう。先に掲げた里耶秦簡8-528+8-532+8-674では確かに御史大夫が假御史を代に派遣していたので,この傳食律の「使者」はこうした官員のことを指していると考えられる。「使者」が通過する県では彼らに対して食糧を支給する義務が課せられていた[22]。
(3)丞相史
先に見た御史あての封検と類似するものとして,里耶秦簡中にはまた丞相の属吏に宛てられた封検(16-886簡[23])が存在する。
郪覆衣用丞相叚(假)
史産治所
同種の封検の文例を参照すれば,この簡が「郪県で衣用に関する覆獄をおこなっている丞相假史産の治
丞相、御史及諸二千石官使人,若遣吏、新爲官及屬尉、佐以上徴若遷徙者及軍吏,縣道有尤急言變事,得爲傳食。所」に当てられた封検であることがわかる[24]。これもまた遷陵県廷において出土した理由は明確にはわからないものの,秦代においても丞相史が地方の県に派遣されて覆獄を行うことがあったことを示している。
丞相史が地方で覆獄に従事したことはまた嶽麓秦簡「爲獄等状四種」案例8(140簡)にも窺われる。
(始皇二十八年)九月丙寅,丞相史如論令妘贖舂[25]。
とある。いずれの県の裁判を丞相史が裁いたのかは不明であるが,里耶秦簡16-886と同様に地方県の獄であったとすれば,嶽麓秦簡に言及される地域の範囲からして旧楚地の県であった可能性は高い。
また嶽麓秦簡(伍)所収の秦令(128-130簡)に次のようにある。
●令曰:御史節發縣官吏及丞相、御史、執法發卒史以下到縣官佐、史,皆毋敢名發。其發治獄者官必遣嘗治獄二歳以上。不從令,皆貲二甲,其丞、長史、正、監、守丞有(又)奪各一攻(功),史與爲者爲新地吏二歳。御史名發縣官吏書律者,不用此令。 ●卒令丙九
整理小組が指摘するように,ここに見える「長史」には丞相長史が含まれている可能性がある[26]。
秦簡にはこのように地方に派遣された丞相史の姿が確認できる。このような職責は漢代の丞相史にも継承されており[27],実際,宣帝期の丞相魏相はしばしば「掾史」を地方に派遣していたことが知られている[28]。このような丞相史の地方出刺が,秦代においても既に実施されていたことを上掲の里耶秦簡·嶽麓秦簡は証明するであろう。
(4)執法卒史
丞相·御史とならんで執法もまた,その属吏を地方に派遣していた[29]。廷史について検討した際に取り上げた嶽麓秦簡(伍)262簡には「它執法官得乘倳(使)馬覆獄,行縣官及它縣官事者比」とあり,「執法官」が覆獄·行県に携わっていたことを示す。また丞相史の部分で言及した嶽麓秦簡(伍)128-130簡には「●令曰:御史節發縣官吏及丞相、御史、執法發卒史以下到縣官佐、史,皆毋敢名發」とあり,執法には丞相·御史と並んで「卒史以下到県官佐、史」を動員して治獄に当たらせる権限があったことがわかる。
ただ,以上の史料はあくまで制度規定であって,実際に地方に駐在する執法の属吏に送られた文書や,執法の属吏が実際に従事した業務に関連する文書の実例等については現在のところ発見されていない。
以上のように,秦代においては廷尉·御史·丞相·執法が旧楚地をはじめとする地方郡県へと属吏を派遣する制度が存在した。本節で取り上げた史料によれば,そうした属吏は主に郡県に対する巡察や,県の裁判に対する覆獄といった業務に従事していた。丞相·御史·廷尉·執法らの属吏は,郡県を督察する監察官としての役割を担っていたと言える。こうした監視システムの存在は,睡虎地秦簡·語書に言う「吏民犯法爲間私者不止」といった問題に応じるものであったであろうことは想像に難くない。
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